東京穀物商品取引所が3月にコメ先物上場を申請。 米先物は戦前にあった

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ザ・リバティwebの デイリーニュースクリップは いいです。 元記事のセレクトのセンスがいいです。また、そこからの解説の内容や新たな視点に 読み応えがあります。

と、◆ 巨大都市の再設計は、それ自体が未来の基幹産業になる。(ドラッカー)で書いたのですが、

忙しいとき、1週間の世の中の動きをまとめてサーチしたいときなど
デイリーニュースクリップは とても便利です! 



気になった記事がありました。

■ 念願のコメ先物上場なるか  2011.02.16

16日付日経新聞によると、東京穀物商品取引所が3月にもコメ先物の上場を申請する考えを示唆したという。
東穀取は2005年にも申請したが、当時、農水省は認可しなかった。コメが取引所に上場されれば、市場原理によって価格調整がなされるため、農水省主導の価格調整の必要性が薄れるからだ。
しかし、時代の流れとしては、生産と価格を統制的にコントロールするよりは、マーケットで価格が調整される方向に向かわざるをえないだろう。
現在、日本を代表する商品取引所である東京工業品取引所は売買高で世界11位に過ぎない。
しかし、元々日本は、大阪の堂島で世界で初めて先物市場を設立している、“先物先進国”であり、戦前もコメは先物市場で取引されていた。 70年ぶりのコメ先物の復活を果たしたいところだ。(村)



秀吉さんが大阪城を築いて大阪が日本の経済の中心地として発展し、
堂島に米市場が出来て、江戸時代には既に米の先物市場があったとか
どこかで聞いたことありました。

そして、手旗信号と望遠鏡の組み合わせて、
堂島での米の値段は、全国各地へ毎日人力で送信されたとか

で、使った丘や山で、実際、手旗信号をして値段を送れるものなのかどうか
の実験を、どこかのテレビ局が実践して番組にしてたりもして
手旗で送ったのは本当の話しなんだ… と妙に感動しました。
日本の江戸時代って すげぇ



旗振り山 NHK熱中クラブ_convert_20110219133350
「ふしぎ発見・畑山は旗振り山?」  にしのみや山口風土記




■ 旗振り通信 Wikipedia

熟練した者によってスムーズに旗振りが行われた場合、1回の旗振りを約1分で行うことができたと考えられ、旗振り場の間隔を3里(12km)とした場合、通信速度は時速720kmということになる。
大阪から和歌山まで十三峠経由で3分、天保山経由で6分、京都まで4分、大津まで5分、神戸まで3分ないし5分または7分、桑名まで10分、三木まで10分、岡山まで15分、広島まで27分で通信できた といわれている。









山形県の庄内平野の酒田に、本間宗久という相場の名人がいた
と聞いたことがありますが
インターネットが ない時代に、どうやって米の値動きを知ったのか…
と、不思議に思っていた事があって、関心があったりしました。




また、いま思うのですが、
数キロ刻みで、手旗信号を全国各地に送るとなると人件費がかかります。
どれだけ多くの人がこの手旗通信網に従事していたでしょうか。
米相場だけでなく、日本の東西では金本位、銀本位で日々値がが違うので、
為替相場の値だって送信していたかも…です。
情報インフラ産業のはしり…

その情報インフラ産業を、米相場が養っていたわけで、
米相場で盛んに売り買いされ取引の規模が大きくなっていたわけで、
何かの経済規模が大きくなると、
大きくなった経済活動自体が、新しい雇用をどんどん生み出すのかも… です。
経済って そういう性質?



わたしは、米の先物市場が
あったほうがいい かどうか わかりません。


投機的なお金は世界にいっぱいあるので、
それが流れ込んだときに、高値になって問題はないのか とか

高値だと生産者が素直に儲かる…のなら、いいなぁとか
高値になれば、消費者は小麦食を増やしたりして実質、問題ないか。
問題は、先物市場があることで安値になる場合…、とか

考えても、わたしには よく わからないです。


ちなみに目下、わからないのは、
TPPで、農産物が安く入ってくるって
食の安全保障上、ホントに大丈夫なの?
 です。

関税を外すと、カリフォルニア米は、10キロ、600円だ
と、先日、地元紙の十勝毎日新聞の記事に出ていました。

それって、コメ10キロが、
コンビニ弁当1食分の値段じゃないですか。

そんな安さで入れて、農家って 生きていけるの?
安いって、いいことじゃない面があります。

わたしには TPPが良いことなのか、全然、わからないです。

幸福実現党の候補者のブログに、TPP賛成の記事がずいぶんあるようですが、
食の安全保障は、ホント大丈夫なんでしょうか?
それに、企業的な経営努力しない農家はすべて淘汰されてしまえ と?




それはともかくとして、
米の 先物相場ですが、

「戦前もコメは先物市場で取引されていた。」という
ザ・リバティwebの デイリーニュースクリップの、このワンコメント。
いいですねぇ。
そうか、大丈夫そうなんだな という材料を与えてくれます。


ザ・リバティwebの デイリーニュースクリップ、
ただ時間的に便利なだけじゃなく、判断の材料も添えてあるのが重宝です。






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 東京穀物商品取引所が3月にコメ先物上場を申請。 米先物は戦前にあった
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 幸福実現党の立党大会 2009. 5.27の翌日の 日経平均 株価の状況
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日経の元記事は、検索でヒットせず… でした。
デイリーニュースクリップに内容が抽出されて、ネット空間に残っているのもありがたいです。

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ちなみに、「東京穀物商品取引所 コメ先物」で検索すると、
ザ・リバティwebの デイリーニュースクリップ記事が上位に来ます。

ザ・リバティwebサイトへのアクセスは、
デイリーニュースクリップ記事のおかげで 相当 増えていることでしょう。
デイリーニュースクリップは、あらゆるジャンルの記事で、なおさらです。

期限が来ると、デイリーニュースクリップは会費会員のみの利用になるようですが、
そうなると、不特定多数のかたからの サイトサクセスの道が閉じることになります。
そういう面では、もったいないかも…

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■ コメ先物の上場申請へ 東穀取、来月にも  2011.2.15 日経

東京穀物商品取引所の渡辺好明社長は15日の定例記者会見で、
3月にもコメ先物の上場を申請する考えを示唆した。

商品設計を2月中に終え「すみやかに上場申請する」と述べた。
実現すれば約70年ぶりにコメ先物が復活する。

今週に設ける検討会で品種など詳細を決める。
農林水産省は申請後 3カ月の公示期間を経て「法律にのっとって検討し、最終的に大臣が判断する」(商品取引監理官)

東穀取は東京工業品取引所への市場移管を検討している。
コメの先物の上場が許可されて取引が始まれば、他の上場商品とともに東工取に移管を求める方針。

ただ東穀取は2005年にも申請したが、

農水省は「生産調整後に支障が出る恐れがある」として認めなかった。
今回も農協組織などの反発が予想される。









■ 本間宗久 Wikipedia

1724年 ~1803年。幼名久作。出羽庄内(現在の山形県酒田市)出身。
江戸時代の米商人で、酒田、大坂、江戸での米の商いで莫大な富を得た。
後に徳川幕府の上杉鷹山を補佐した酒田の豪商本間光丘は甥。

1724年出羽庄内(現在の山形県酒田市)で生まれる。父は酒田の米屋「新潟屋」の本間原光。
16歳の時 江戸へ行く。当時の将軍は、徳川吉宗。
帰省後、酒田にて 米相場での投機を父に進言するが「商いの正道ではない」と。
父原光の死後、後を継いだ 長兄光寿が数年で隠居。
光寿は「新潟屋」の跡継ぎとして長兄の子光丘を家業修行のため愛媛「奈良屋」へ手代奉公とし、その間は宗久を仮の主とした。
宗久は 店の資金で酒田の米相場で投機を行い、数万両単位で儲ける。
その後、光丘が愛媛より帰郷し「新潟屋」の主となる。
しかし、光丘は 経営方針を違える久作(宗久)と 叔父甥の縁を切り店(たな)より追放。
また、久作が投機で得た金の多くを 防砂林等の公共事業へ寄付してしまう。
酒田を出た久作は 江戸で米相場の投機を行うが失敗し 破産する。
失意の中で帰郷した久作は 体勢を立て直し、今度は 当時 江戸以上の大市場であった大坂で再び投機を行う。大坂の米相場では 江戸の失敗を糧に才能を発揮。「 出羽の天狗 」と称された。
大阪で得た利益を持ち 酒田で 再度商いを始めるが、光丘からは縁を切られたまま。
50歳になった久作は、名を宗久と改め江戸へ移る。
ここでも相場に成功し 多額の財産を作り、また光丘とも和解。
その後は 江戸で 新潟屋の現物米とあわせて莫大な財産を手にしたという。
彼は 酒田の米を売り 本間家の勃興を側面から支え、その活躍ぶりは、『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。』『本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』といった唄が流行るほどであったという。
(Wikipediaの文を区切って読みやすく直してます) 

本間宗久は酒田五法を考案し、ローソク足の考案者であると言われるが、
堂島の米市場が官許となったのが1730年(享保15年)であり、取引形態が整備されたのは彼の死後と推測され、これは疑わしい。


中には政商や酒田の大商人の家系から幕府と敵対的な相場には参加すらしなかったのでは?との説まである。また遺訓とされるものや「本宗莫那剣」「三昧伝」さえ原本の存在が疑われ、
「宗久翁秘録」「酒田戦術詳解」「本間宗久相場三昧伝」といった書物が、宗久の手になるものとして現在に伝わる
が 明治初め以降にまとめられたものとの説もある。

ただ、当時先駆的な先物市場であった、堂島、蔵前の米会所で、後のチャールズ・ダウと並んでテクニカル分析が行われた事実はあり、彼の生きた時代から 200年以上がたった 今もなお、その基本的な手法が 活用され 酒田罫線法として伝わる事実はある

小文字は 正確を期すために こういう説もあると付記された部分

時代を越えて先進的だったため江戸時代ではなかろう… 
と 後世の研究者の憶測があとから付いている感じです。









■ 最強の相場師、本間宗久とは?-酒田五法 【NSJ 日本証券新聞ネット】
   http://www.nsjournal.jp/stock/sakata/about-honma.php

ここでは、酒田五法を作り出した 本間宗久の人生を紹介していきましょう。

 江戸時代の日本は 世界的な経済先進国

 江戸時代の日本は、世界に先駆けて米の先物相場が出来上がっていました。
先物相場とは、商品の価格を安定させたり、商品の需給量の調整を行うために開かれる相場のこと。今でいう商品先物と同じような取引相場です。

そして、驚くことにここではすでに、ローソク足が発明され、罫線法という、いわゆるチャート分析法も編み出されていたともいいます。徳川幕府の強固な国内統一や鎖国体制によって、日本国内の治安、経済は安定したことによって、当時の日本は経済的に最先端を走っていたといえるでしょう。

そして、その先物相場で百戦連勝、相場の神様といわれ、今でも現代に通じるチャート攻略法である「酒田五法」を作り出したのが本間宗久なのです。

 米相場で百戦連勝、巨万の富を築いた宗久

 本間宗久は今をさかのぼること280年ほど前、江戸時代後期の1724年(1717年の説もあり)に出羽国庄内(現在の山形県酒田市)にて生まれました。
 生家は「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれた酒田の豪商で大地主、本間家です。宗久はこの本間家の初代当主・原光の五男として生を受けました。
 宗久が初めて相場を張ったのは、本間家二代目当主である兄の光寿から本間家の営業を託されていた時代(1750年頃)。本間家があった酒田は出羽米(今の庄内米)の一大生産地であり、宗久は当然のように米の売買と投機に手を出すようになります。宗久は米相場の研究を始めて実践に移しましたが、買えば当たり、売れば当たりでわずかの間に数万金の利を得たと伝えられています。
 その後、兄の光寿が世を去り、甥にあたる光丘が三代目当主となります。宗久は光丘とはからって大量の庄内米を売りに出す一方で、京都と大阪の米会所(米相場)を舞台に米相場に挑みます。当時の実家の本間家は二十五万石ともいわれた豪農でもあり、米の現物を背景にした上、作柄情報が刻々と入るという恵まれた環境に加え、宗久は天才的な相場師でもありました。記録に裏付けられた合理的な作柄の豊凶予測とともに、大胆不敵で進退自在な攻防によって、仕手戦に花を咲かせ、連勝記録を打ち立てていきます。常勝腐敗の記録を打ち立てた宗久は巨万の富を築き、"出羽の天狗"と讃えられるまでになっていきます。

 関西市場を席巻して、相場の神様と騒がれた宗久は、いよいよ江戸へと乗り込みます。そして、ここでもスケールの大きな売買を展開し、天才的相場師の面目を発揮して空前の巨利を得ます。宗久は生涯で現在のお金にすると1兆円以上になるともいわれています。かくて、天才の名声と巨万の富を得た宗久は、江戸根岸に豪邸を構えて悠々自適の生活を送りましたが、晩年は幕府の財政指南役として相談にもあずかっていたといいます。

  宗久が後世に残した遺産―酒田五法

 そして、その本間宗久の相場観を元に作られた必勝法が、ローソク足の組み合わせからチャートを読み解く「酒田五法」です。日本では欧米でチャートが生まれるはるか昔に、優れた罫線法を作り出されていました。本間宗久は、その罫線に見え隠れする投資家の心理状態を読み、相場の必勝法を生み出していったのです。酒田五法は、本間宗久の相場伝を元にして、後世の人々が、わかりやすいローソク足を使った法則に変化させながら、発展していきました。
私たちは、酒田五法の普遍性を、今でもさまざまな酒田五法のパターンを、株価や為替、先物などさまざまなローソク足の中に簡単に見出すことからも確認できます。
 現在では、ローソク足自体もキャンドルスティックの呼び名で、世界中の投資家にとっても一般的なものとなりつつあります。世界中の投資家に酒田五法が浸透するときがくる日も、そう遠い未来ではないかもしれません。

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■ 本間氏 Wikipedia 

本間氏は佐渡本間氏の分家で、山形県酒田市を中心に農地解放による解体まで日本最大の地主だった家。
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」という歌も詠まれるほどの栄華を誇った。

佐渡本間氏の一族には、上杉氏転封のさいに山形へ移った者もおり、江戸時代初期、元々は海運商人であったが金融業にも進出し収益(※主に、大阪堂島米相場の先物取引での巨利をあてたといわれる)を土地の購入にあて田地を拡大していった。

庄内藩や米沢藩の財政改革を支えた、三代当主本間光丘が有名。
この時、300石の士分格にもなり、江戸時代は他に北前船交易の盛隆もあり三井家・住友家に劣らぬ大商家であった。

しかし明治維新後は、引き続き日本最大級の大地主ではあったが、起業・興業にはあまり熱心ではなく三井家・住友家のように財閥化せず、一地方企業家にとどまった。
酒田の町の防風林や灌漑事業などのインフラ整備に大いに尽力した。
酒田本間氏については「本間家旧本邸」のように、本間氏(ほんまし)ではなく本間家(ほんまけ)と通称される。
本間家の中核企業であった本間物産は平成2年(1990年)に倒産、その後カウボーイ傘下で再建された後、現在は秋田県仙北市の酒類卸売業者・伏見屋の子会社となっている(店名は、マルホンカウボーイとなっているが、社名は本間物産のまま)。本間ゴルフ創業者の本間敬啓、裕朗兄弟は酒田本間氏庶流にあたる。





■ 本間宗久の名言格言
年中の内、両三度より外、商い致すところこれ無きものなり。
相場保ち合いの時うっかり慰みに商い仕掛くることあり、はなはだ宜しからず、慎むべきなり。




■ 北前船で栄えた日本海の都市と交流「81万人の港町・新潟」 2006.8.19

 1 酒田市の歴史、概略について 阿部寿一 酒田市長

酒田市長の阿部でございます。
まず81万人の港町として発展を続けられる新潟市の合併、本当におめでとうございます。
また、合併記念のこのような素晴らしいイベントにお招きいただき、心から感謝します。
大変名誉なことと思っております。

早速、酒田港の歴史について申し上げたいと思います。
酒田湊の発祥は、奈良時代とも、それ以前ともいわれています。
最上川の河口にできた港町ですが、「古今集」にも「最上川のぼれば下る稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」とうたわれるような、古い歴史を持った湊であります。
東北地方では、その時代に繁栄した都市として奥州平泉があるのですが、平泉が京都と結びつく玄関口と位置づけられたのが酒田です。当時は陸路を通るより、海上を移動する方が安全であったということがありました。余談ですが、酒田の近世の都市を造ったのも平泉の遺臣だといわれています。

この酒田をさらに発展させたのが、原先生のお話にもありましたように、
河村瑞賢の西回り航路開設が大きな契機になっています。
最上地方の米を、安価で大量に運ぶために開設されたのが西回り航路ですから、
酒田が西回り航路開設のきっかけでもあったわけです。

米だけではなく、皆さんは山形といえば、さくらんぼを思い浮かべるでしょうが、
当時は紅花ですね。
上方の皆さんの紅の原料として、重要な換金作物として交易がされていました。
このことについては、井原西鶴の「日本永代蔵」に出てくる、
酒田の回船問屋鐙屋という具体的な名前で記述がされています。

新潟とも、どちらかといえば佐渡と近いのですが本間家。
ここは米相場をかなり張っていました。
その繁栄振りが「酒田照る照る堂島曇る 江戸の蔵前雨が降る」と、酒田の米相場が大坂の堂島や江戸の蔵前米相場まで動かしていた、というような記述が残っているくらい繁栄していたということです。
また、町人自治ですが、私の方では「西の堺、東の酒田」と言うんですが、それに新潟を加えなければと思って聞いていました。酒田は町人自治の盛んなところでした。

明治に入って北前船の衰退に併せて、港の機能も徹底的なダメージを受けました。
河口港ですから帆船は何とか入っても、汽船は入りにくい。
鉄道輸送が全国的に整備されたこともあり、酒田は一時かなりの減退をしました。
近代では重工業の立地をしていますけれど、物資輸送は鉄道や道路が主流になり、港自体は工業の立地場所としては存立しても、物流面では弱体化しました。

 しかし、また新たな展開があると私は思っております。
貿易を基本としつつ火力、風力発電所があり、エネルギーを生み出す場所として、また、これは新潟の方が先進ですが、水辺空間を生かした観光なども進めております。
そのきっかけは出来つつあるのですが、貿易という面に関しては我が国の経済が、北東アジア経済圏を形成しつつある、ということが大きな要因であります。
その中心として位置づけられるべきは、新潟だろうと思います。新潟港の発展は日本海側各港の発展と無縁ではなく、私たちも新潟港と役割分担、連携をしていきながら、さらに発展していきたいと思っています。本当はもっと話したいことがあるんですが、5分くらいと言われているので終わりにします。

 最後に一つだけ。酒田というと、酒ができる田んぼがある、原料になる米がたくさんとれるから酒田ではなく、昔は「砂潟」と書いたそうです。新潟は新しい潟ですね。規模の大小はありますが、新潟も酒田も三方を山に囲まれています。主要な貿易作物は米、大変似たような歴史を歩んできた町だったと思います。

 そして先ほど申し上げた本間家。
これは佐渡の出身といわれています。それから上越市に「米大舟」という民謡があるのですが、酒田のことを歌ったところがあります。つながりがあったんですね。酒田には越前屋という名字はたくさんあるんです。残念ながら時代劇によく出る、越後屋という名字はあまりないんですが。私たちはそれだけ結びついていた湊だったと思っています。平成に入りましたが、相互の連携はこれからも大事だと思います。81万の港町新潟を一つのリーダーとして、私も共にがんばっていきたいと思います。

阿部寿一(酒田市長)_convert_20110219121853







■ 随徳寺(本間宗久の墓)  台東区下谷2-18-7

 「随徳寺」は、東京の下町にある小さなお寺で正式には上記のように表記します。
 米相場を読み尽くし大阪・江戸の米相場を席巻、「出羽の天狗」と称され、酒田の本間家を一大豪商に仕立て上げた本間宗久がここに眠っています。相場の神様と讃えられ、罫線(テクニカル分析)の創始者として名高い本間宗久ですが、墓石には「本間家の墓」とあるのみです。
 その昔、証券会社の新人は、先輩に率いられここを詣でたとのことです。

○本間宗久とは

 享保9年(1724年)出羽の国(現在の山形県酒田市)で生まれ、23歳で酒田の豪農・本間家の養子となりました。
大阪の米相場(堂島米会所)で才能を発揮、変幻自在の仕掛けと徹頭徹尾理性に貫かれた相場道の確立により、「出羽の天狗」の異名をとりました。米相場での宗久の戦績は常勝不敗、兄の二代目当主から一時的に経営を引き継いだ1750年前後の数年間に、本間家の資産総額は10倍以上に膨れ上がったとの伝承もあります。その活躍ぶりは、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」といった唄が流行るほどでありました。この成功によって、江戸時代中期以降、財力で日本一と言われた本間家の基盤をつくりあげました。ところが、本間家の跡を継いだ甥の本間光丘は「相場は永く家を保つ道にあらず」として、宗久を義絶しました。その後、宗久は江戸の相場でも連戦連勝し、江戸の米穀問屋を震え上がらせ、文字通りその名を不動のものにした。後に、上野・寛永寺や幕府に財政の助言を行い、御家人の位を貰ったといわれます。










■ <本間家旧本邸>  このたび・またたび
   http://www.geocities.jp/yonbanhome/matatabi/matatabi020.html

酒田の歴史は、本間家の歴史であると言われる。
豪商本間家は、江戸時代に、問屋・海運業・米相場の投機などで巨万の富を築き、第二次世界大戦までは、酒田市の田の半分を所有(酒田市の税金の半分を納入)した大地主であった。
 「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」と唄われたのは、有名な話である。

 歩いて数分、本間邸に着く。
 この屋敷は、幕府の巡検使一行を迎えるために、三代本間光丘が(わずか数日間使者を泊めるために、2年余の歳月をかけて)新築し、藩主酒井家に献上したものを、後日拝領したものという。(武士の世界はややこしい)
 表は、二千石旗本屋敷の格式を供えた武家造りで、その裏に商家造りを接合した建築である。もちろん、武家造りの方は普段は使わず、商家造りの方で生活をしていたという。(このように、二つの建築様式が一体となっている建物は、全国に例を見ないそうである)

 観光客3~4人がまとまった所で、案内が始まった。
武家造りは、特に変わった所は無かったが、商家造りの方は、豪商の割には質素なことに驚かされた。
(私財は、藩への献金・新田開発・寺社への寄進・貧民救済事業等へ投じ、商人としての分をわきまえた生活だったという)

光丘の私室はわずかに五畳、北西の日の当たらぬところにあった。


■ <山居倉庫>  このたび・またたび
酒田の町は、最上川下流の庄内平野で生産された米の集散地であり、明治26(1893)年に、新井田川の畔に、保管倉庫が造られた。

二重構造の屋根や湿気を防ぐための工夫に当時としては最高の技術が用いられ、
現在でも、JA全農庄内の現役倉庫として活躍している。








■ 相場の天才・本間宗久も最初は負けてばかりいた!(2/2) - 杉村富生

Vol.7 相場の天才・本間宗久も最初は負けてばかりいた! 2007年5月15日

江戸時代に名を馳せた相場師、本間宗久をご存知だろうか。
現在の山形県酒田市から江戸にでて、江戸時代に二大米相場といわれた大阪堂島と江戸蔵前をあらし百戦百勝したといわれる伝説の相場師です。

ところで、この人は最初から常勝だったわけではありませんでした。
若いときに、江戸に出て米相場をやったのですが、これが完膚なきまでにやられます。
立ち直れないほど、ぼろぼろになって酒田に戻りました。
「死のう!おれのような男は、生きていく価値がない」
と思った本間は、あるお寺に大徳和尚を訪ねます。
「私はダメな人間です」
本間は泣き言をいう
そのとき大徳和尚が、修行僧のやり取りに関する逸話を話して聞かせます。

二人の修行僧がのぼり旗を眺めていました。
一人の修行僧が、「旗が動いているな」といったところ、
もう一方が 「違うよ旗が動いているんじゃないよ、風が動いているんだ」
「いいや、旗が動いている」
「いや風だよ」
と言い争っている。

そこへ高僧がやってきます。
「あなた方、お二人が言い争っていますが、これは旗が動いているのでもないし、風が動いているのでもない。動いているのは、あなた方の心だ。心が揺れているのだ」といいます。

この逸話を聞いた本間宗久は相場の本質をつかんだのです。
これが今に伝わる「風幡の説法」です。

ここで、旗というのが、材料(相場をうごかす材料)を示し、風は相場の水準や方向を示しています。
相場は、価値と需給と人気で決まります。
業績など価値の分析だけではなく、需給と人気、つまり市場センチメンタルズというか、マインドを読まないとダメだということです。

「金魚売りに売りなし」
これは、江戸時代の格言です。

金魚売が江戸の町にたくさん来るというのは、暑いということ。
涼をとるために人々は金魚を買います。
したがってたくさんの金魚売りが江戸にやってきます。
金魚が売れる7月8月は、暑いということで、これからすると秋の米相場は大豊作ということになります。
豊作になると米の値段は下がるはずで、早く売らないと損をすることになると普通は考えます。

しかし、実際には「金魚売りに売りなし」。
つまり、売ってはいけないということです。
相場のプロは3月4月の苗床を作る時期に、苗代の状態や水の温度、山の雪の加減などで今年の夏は暑いぞ(逆もありますが)と判断します。
そこで、先物を売ります。

つまり、天候を確認してから行動することの愚かさを「金魚売りに売りなし」といっているのです。

兜町では「遅れたものは悪魔の餌食」と言います。
それがまさに、心です。
心理の逆を読まないとダメだということを教えているのです。

本間宗久は、「風帆の説法」を聞いて、心を読んでいなかったかことを知り、気持ちを切り替えるのです。その後の連戦連勝は、そのときの賜物でしょう。

「本間様にはおよびもないが、せめてなりや殿さまに」
といわれた本間家の隆盛を築いた人ならではのエピソードだと思いませんか。












すごいぞ Wikipedia。
こんなのも、Wikipediaになってました。 驚!

■ 旗振り通信 Wikipedia

旗振り通信とは、
江戸時代中期から明治期にかけての日本で、米相場などの情報を伝えるために活用されていた、旗などを用いた通信システム(大型手旗信号の一種)である。
気色見(けしきみ)、米相場早移(こめそうばはやうつし)、遠見(とおみ)ともいう。
米のほか 油・株式・金銀の 相場情報の伝達に用いられた

旗振り通信は 江戸時代中期、全国の米価の基準であった大坂の米相場を
いち早く他の地域に伝達するため、さらに地方の相場を大坂に伝えるために考案された。

起源は 紀伊国屋文左衛門が 江戸で 米相場を伝達するために
色のついた旗を用いたことにあるといわれており、旗振り通信が初めて登場した文献は1743年(寛保3年)の戯曲『大門口鎧襲』とされている。

従来米相場の伝達には飛脚(米飛脚)・挙手信号・狼煙などが利用されており、
江戸幕府は米飛脚を保護するため旗振り通信禁止の触れ書きを出した。
ただし禁止令は摂津国、河内国、播磨国の3国に対してのみ言い渡されたものであったため、堂島から飛脚を住吉街道を通って和泉国松屋新田まで走らせ、そこから大和国十三峠、山城国乙訓郡大原野(小塩山)、比叡山、大津へ抜けるルートを使って情報伝達が行われた。

1865年(慶応元年9月)、イギリス・フランス・オランダの軍艦が兵庫沖に現れた際に旗振り通信によって速報がされたのをきっかけに禁止令は解かれた。
以降旗振り通信は盛んに行われ、明治には政府公認の仕事となり、相場師、めがね屋などと呼ばれた。

1893年(明治26年)3月に大阪に電話が開通すると次第に電話にとって代わられ、
1918年(大正7年)に完全に廃れた。

熟練した者によってスムーズに旗振りが行われた場合、1回の旗振りを約1分で行うことができたと考えられ、旗振り場の間隔を3里(12km)とした場合、通信速度は時速720kmということになる。

大阪から和歌山まで十三峠経由で3分、天保山経由で6分、京都まで4分、大津まで5分、
神戸まで3分ないし5分または7分、桑名まで10分、三木まで10分、岡山まで15分、
広島まで27分で通信できた といわれている。

江戸までは箱根を超える際に飛脚を用いて1時間40分前後または8時間であった。

旗振り通信の再現実験

1981年(昭和56年)12月、西宮市在住の会社員が中心となって、大阪市堂島と岡山市京橋との間に25の中継点を設定し、旗振り通信が再現された。スモッグによる視界不良を原因とする中断を挟みつつ、約167kmを2時間17分かかって通信、10番目の中継点である明石市金ヶ崎山と終点の岡山市京橋との間では内容が正確に伝えられた。ちなみに、これに先立って同年8月に行われたテストは通信が途切れる、伝達すべき数字が大きく狂うといったトラブルが生じ、失敗に終わった。
その後1984年(昭和59年)と1991年(平成3年)にテレビ番組が再現実験を行い、放映された。






■ 心柱 法観寺   かりんとうblog
今、登れるのは2階まで  
江戸時代は、一番上から大阪の米相場を手旗信号で読み取ってた





■ 旗振り通信
旗振り通信_convert_20110219132453




■ 旗振り山 amazon
旗振り山2 書籍_convert_20110219133001




「ふしぎ発見・畑山は旗振り山?」  にしのみや山口風土記
旗振り山 NHK熱中クラブ_convert_20110219133350







■ 米相場で大活躍した望遠鏡  ミュージアム「こぼれ話」 東京メガネ

眼鏡が日本に伝来したのは16世紀の中頃ですが、
望遠鏡はいつ頃我が国に伝来したのでしょうか。

望遠鏡はイギリス東インド会社の貿易船司令官として、 1613年に来日したジョン・セーリスから徳川家康、あるいは平戸の領主・松浦法印鎮信(初代)に贈られたものが最初であろうといわれています。
望遠鏡は当初、異国からの幕府閣老などへの贈呈品として珍重されてきました。

その望遠鏡も元禄時代頃になるとだいぶ普及してきて、
米相場や金銀相場に利用されるよ うになります。

江戸幕府260年の基本は一石一両という米価でしたが、
当時、箱根から東は金、西は銀相場で、江戸と大阪では毎日価格変動があったため、米や金銀相場で利益を上げるためには、基準に対しての騰落の程度をいち早く伝える必要があったのです。

その情報の伝え方は、要所要所に配置した連絡員が手旗信号による符牒で順次伝えていくというものでしたが、この符牒を確認するのに望遠鏡が使われたというわけなのです。

しかし、天下の険・箱根八里だけは望遠鏡で確認というわけにもいかず、早飛脚が一里ずつ走って伝えていったそうです。こうして、江戸の相場はその日の内に、大阪に伝えられたといいます。まさに 「先んずれば人を制す」といったところで、情報合戦が繰り広げられていたのでしょう。








■ 1.旗振り通信 Q&A 「ものがたり通信」 

(Q1)旗振り通信ってなあに?

(A1)江戸時代中期から大正時代中期まで、大阪堂島の米市場(取引所)では米相場がたち、現在の株式や先物取引と同じように、米の値段の上下によって差金決済を行い、莫大な利益を上げようとする人々で賑わっていた。
  各地の米市場の米取引はその堂島の米相場によって大きく左右されたから、その米相場をできるだけ早く知る必要が生じた。江戸時代には米飛脚によって伝えられたが、いかんせん、時間がかかる。
 そこで、一刻も早く米相場を知って、利益を上げようという人々によって考案された方法が旗振り通信であった。旗振り人夫が見通しの良い山の上で望遠鏡を用いて、旗振り信号を確認し、山から山へリレーし、堂島の米相場を遠方まで伝えた。
飛脚が長い時間かけて走る距離を、旗振り信号は短時間で次々と伝えていき、西は九州北部、東は江戸まで伝わっていったのです。


(Q2)旗振り通信はいつ始まったの?

(A2)元禄時代(1688~1704)、江戸で紀伊国屋文左衛門が色旗で相場を伝えたという話が残っていますが、事実かどうかわかっていません(近藤文二「大阪の旗振り通信」)。元禄当時の大阪に旗振り通信があったかどうかについても伝えられていません。

   宝永3年(1706)7月の『熊谷女編笠』一の二、「商いは千里を見透かした遠目鏡」には、角屋与三次(すみや・よそじ)が人夫を雇い、暗峠の目印の松に立ちそい、左右の手を動かして合図させて、郡山の問屋の二階から遠眼鏡で見て、相場の上下をいち早く知り、利益を上げて、見通し与三次と呼ばれたという(「旗振り通信の初まり」、1929年。南方熊楠全集第四巻)。この人夫は赤頭巾をかぶり、赤布の小手を差しており、挙手信号であった。ある日、人夫が酒を飲まされ、でたらめの信号をしたため、与三次は大損をしたという。

  『日本戯曲全集』四九冊、『大門口鎧襲(おおもんぐちよろいがさね)』序幕に遠眼鏡で旗振で相場を知らすことがあり、この戯曲は解題に寛保3年(1743)板とその名題が見えるという(「旗振り通信の初まり」)。従って、1743年には旗振り通信が行われていたことがわかる。大門口とは、遊郭への入口をいう。

 延享2年(1745)頃、大和国平群郡若井村の住人源助なるものが、その配下を大阪にやり、本庄の森(北区)より信号によって堂島の米相場の高低を表示せしめて、これを自ら十三峠より望遠鏡で眺めたのが、旗振り通信の起源であるという(近藤論文、前出)。最初は煙、次は大傘、後に旗を用いるようになったという。後になると、大阪駅近辺の墓地が信号場所となった。

  大阪堂島の米市場が幕府によって公許されたのは、享保15年(1730)である。その後、急速に旗振り通信が発展し、米飛脚の生活権を脅かすようになったため、幕府は安永4年(1775)に旗振り信号禁止のお触れ書きを出している。当時、相当、広範囲に旗振り通信が行われていたことがわかる。


(Q3)旗振り通信はどこまで伝えられていったの?

(A3)厳密に言うと、年代によって、伝達地域は異なるので、年代別のルートを示す必要があるが、ほぼ、山陽道と東海道に近い沿線にルートが設けられ、西は九州北部、東は江戸までというのが、大まかな範囲と言えるでしょう。通信地点は、『旗振り山』を参照。






■ 旗振り通信  ある通信兵のお話し

神戸の六甲山系の西端に、その名も「旗振山」(須磨)という山があります。
山頂にある「旗振茶屋」には、説明板に「ここ旗振山は、その名の通り昔の「旗振り通信」の中継点で、畳一畳ぐらいの旗を振り、大阪堂島の米相場を加古川、岡山方面へ伝えていたことから、旗振山の名が残っている」と書いてあります。

因みに、NTTのマイクロ波(極超短波)も指向性が強い電波ですので、「旗振り通信」と、原理は同じで相互に見通しが効く場所を選んで、中継所を設置しています。








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コメント
No title
カリフォルニア米10kg600円はびっくりする価格ですね。日本ではだいたい4000円くらいするのにと驚いてしまいました。
2011/02/25(金) 21:52 | URL | 記名なし #-[ 編集]
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