◆ アメイジンググレイス

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Amazing Grace Soweto Gospel Choir
http://youtu.be/ZoJz2SANTyo
Amazing+Grace アメンジグレイス1_convert_20110515122527


■ アメイジンググレイス (ヘイリーによるア・カペラ) http://youtu.be/uofG9z66LXg
■ Amazing Grace (本田美奈子) http://youtu.be/cRbP2sPKUL4
■ amazing grace (nana mouskouri) http://youtu.be/lhc7MEYY-Ho



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■ Amazing Grace アメージンググレース(アメイジンググレイス) John Newton (1725-1807)
   http://www.worldfolksong.com/songbook/masterpiece/amazing.htm

Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.


アメージング・グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる



'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved,
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.


神の恵みこそが 私の恐れる心を諭し
その恐れから心を解き放ち給う
信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか


Through many dangers, toils and snares
I have already come.
'Tis grace hath brought me safe thus far,
And grace will lead me home.


これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑があったが
私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった



The Lord has promised good to me,
His Word my hope secures;
He will my shield and portion be
As long as life endures.


主は私に約束された
主の御言葉は私の望みとなり
主は私の盾となり 私の一部となった
命の続く限り


Yes,when this heart and flesh shall fail,
And mortal life shall cease,
I shall possess within the vail,
A life of joy and peace.


そうだ この心と体が朽ち果て
そして限りある命が止むとき
私はベールに包まれ
喜びと安らぎの命を手に入れるのだ


The earth shall soon dissolve like snow,
The sun forbear to shine;
But God, Who called me here below,
Will be forever mine.


やがて大地が雪のように解け
太陽が輝くのをやめても
私を召された主は
永遠に私のものだ



When we've been there ten thousand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.


何万年経とうとも
太陽のように光り輝き
最初に歌い始めたとき以上に
神の恵みを歌い讃え続けることだろう




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■ Amazing Grace アメージンググレース(アメイジンググレイス) John Newton (1725-1807)
http://www.worldfolksong.com/songbook/masterpiece/amazing.htm

今まで見えなかった神の恵みを 今は見出すことができる

  『アメイジンググレイス(アメージンググレース)』は、ジョン・ニュートンの作詞による賛美歌・ゴスペルの名曲。バグパイプでも演奏される。

 ジョン・ニュートン(John Newton/1725-1807)は、イギリスの貿易商の家庭に生まれた。母親は、幼いジョンに聖書を読んで聞かせるなど、熱心なクリスチャンであった。成長したジョンは、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなる。

 歌詞の内容は、ある体験を通して神の恵みに目覚めたジョン・ニュートンの敬虔な心境がつづられている。そのある体験とは、 アフリカからの三角貿易からイギリスへ帰る船の中での奇跡的な出来事 だったと言われている。

アメイジング・グレイスの謎 ジョン・ニュートンの人生・伝記

賛美歌やスピリチュアルとして世界中の人々から愛唱されている「アメージング・グレース(アメイジング・グレイス)」の歌詞は、有名なクリスチャンであるジョン・ニュートンによって18世紀後半に生み出されました。

 その歌詞は、彼が22歳のとき(1748年3月)に、アフリカからイギリスへ帰る船の上で遭遇した大嵐の中での体験を元にしたもので、この体験は彼を熱心なクリスチャンへと回心させていく非常に大きな契機となったと伝えられています。
舞台は18世紀のイングランド
~若かりし頃のジョンニュートン~

 ジョンニュートンが活躍していた当時のイングランドは、蒸気機関や織機・紡績機の発明・改良等のいわゆる産業革命が起こり始めていた頃でした。

 北アメリカ大陸では東海岸に植民地の建設が進められ、ジョン・ニュートンが50代の頃にはこの植民地とイングランド本国との間でアメリカ独立戦争が発生しています。ヨーロッパ各国はアジア貿易での利権獲得を目指して東インド会社を設立し、海上貿易での覇権を絶えず争っていました。

 父親が東インド会社に関わる仕事をしていたジョン・ニュートンも、いつしか海の仕事に深くのめり込んでいくのですが・・・


 貿易船の船長であった父、宗教熱心な母

 ジョン・ニュートン(John Newton, 1725-1807)は、イギリス東インド会社(British East India Company/1600-1874)の地中海貿易に携わる貿易船の船長の息子として、ロンドンに1725年7月24日に生まれました。彼の母親であるエリザベスは敬虔で宗教熱心な女性で、足しげく礼拝堂(非国教会)に通っており、幼い頃からジョンに聖書や問答、賛美歌などに触れさせていたようです。残念なことに、彼女は肺の病気を患い、ジョンが7歳になろうとする頃に、30歳の若さでこの世を去っています(父はその後再婚)。

 8歳になると、彼は全寮制の学校に通い始めますが、ラテン語を少し学んだ以外は特に興味を引かれるものはなく、2年ほどで中退してしまいます。彼にとっては幼い頃に母親から教わった事の方が学校の授業よりも遥かに高度で価値の高いものだったのかも知れません。

 11歳になってからは、貿易商であった父親の船に乗り込み、地中海への航海を数年間にわたり経験しました。17歳頃には父親が貿易業を止めてしまったため、それ以降は一緒に海へ出ることはなかったようです。

 自分が船を下りた後の息子の将来を案じて、お父さんは自分の友人であるジョセフ・マネスティ(リバプールの商人で船のオーナー)に、息子の面倒を見てくれるよう手紙を出します。マネスティ氏はこの依頼に対し、ジャマイカにあるプランテーションの監督役の職を薦めてくれました。将来は園主としての地位も与えられるということもあり、ジョンはこれを喜んで受け入れたのですが、運命は彼に安定した将来を与えることはありませんでした。

 彼女との運命の出会い

ジャマイカに向けて出発するまでの間、ジョンはイングランド南東部ケント州の州都であるメイドストン(Maidstone)で父親の仕事を手伝っていました。

 メイドストンは彼の母親のいとこであり親友であったエリザベス・カトレット(Elizabeth Catlett)が住んでいるチャタム(Chatham)にとても近い場所でした。

 チャタムは古くからイギリス海軍の基地があり、今日では国立造船所や造船博物館などがある歴史ある街です(右図は2006年現在のイギリス)。

 ジョンが近くまで来ていることを知ったカトレットは彼を家に招き、一家から手厚い歓迎を受ける中、彼の視線は一人の女性に釘付けになっていました。その女性とは、カトレットの娘で自分より3歳年下のメアリー(Mary Catlett/当時14歳/通称ポリー)でした。

 一目で彼女を好きになってしまった彼は、彼女といる時間が楽しくて楽しくて、あっという間に予定の3日間は過ぎてしまいました。一旦ジャマイカへ出発してしまえば、少なくとも4~5年は戻って来れないことをわかっていた彼は、なんとかあれこれ理由をつけてずるずると、予定の3日間を遥かに超えて3週間も彼女の家に長居してしまったのでした。

 もともとジャマイカへの出発まであまり時間はありませんでしたから、カトレットの家に長居していた間に、彼の将来を約束するはずだったジャマイカへの船は、彼を置いて出発してしまっていました。 若い彼にとっては、彼女といることがすべてであり、たとえ将来につながる大事な仕事とはいえ、数年間も彼女と会えなくなることは耐え難かったのです。

 この事実を知った彼の父親は嘆き、怒り、陸での仕事を与えるのは取り消しにして、商船の水夫として彼を一から叩き直すことを決意します。

 ジャマイカでの職のチャンスをみすみす逃し、罰として父親から命じられて商船の水夫として地中海への航海をこなしている間も、チャタムの家で出会った彼女の事が常に頭から離れませんでした。

 航海を終えてイングランドに戻ってくればいてもたっても居られなくなり、次の商船に乗り込むまでの時間を利用して彼女に会いに行こうとするほどでした。18歳という年頃ですから、異性に対するはち切れんばかりの情熱を抑えられなかったのも無理のないことでした。しかし、この彼女への情熱が、後の彼の人生の歯車を大きく狂わせていくことになるのです。

 この頃のヨーロッパの歴史~オーストリア継承戦争

ジョン・ニュートンが彼女(ポリー)の家を訪れていた頃のヨーロッパは、ハプスブルグ家を舞台にしたオーストリア継承戦争の真っ只中にありました。

 ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール6世は、男子後継者を早くに失っていました。それまでハプスブルク家は女子の相続を認めてこなかったのですが、カール6世は、娘のマリア・テレジア(Maria Theresia/1717-1780)によるハプスブルク世襲領の相続を勅書により強引に国内外に認めさせようとします。

 1740年に彼が没すると、マリア・テレジアの相続を認めない周辺諸国は領土を分割しようと侵攻を開始し、これがオーストリア継承戦争(the War of Austrian Succession/1740 - 1748)の始まりとなります。イギリスとオランダはオーストリアを支援しました(右図:マリア・テレジア/出典:Wikimedia Commons)。

 ジョンニュートンが19歳の頃には、この戦争はカナダやインドを舞台にしたイギリス対フランスの植民地戦争にも発展し、カナダでの戦争はジョージ王戦争とも呼ばれています。一方インドではフランスインド諸侯を傘下に収めて一時英領マドラスを占領するなど、イギリス東インド会社に対して有利に戦いを展開しましたが、後にアーヘン和約によりマドラスはイギリスに返還されています。

 プレスギャング ~彼女に会いに行ったジョンに何が起こったか?

 ジョンが次の船出を待つ商船が停泊している港の周辺には、フランスとの戦争のためにいくつもの軍艦が臨戦態勢におかれていました。当時のイギリス海軍はプレス・ギャング(the press gangs)と呼ばれる軍の強制徴募隊により、使えそうな若者を手当たり次第に水兵として軍艦に連行していました。フランスとの戦争の真っ只中にあったイギリス海軍にとっては兵の増強は急務であり、プレスギャングもいつも以上に港周辺で目を光らせていました。

 次の商船に乗り込むまでの時間を使って彼女に会いに行こうとして夢中だった彼には、そんな周りの状況がまったく見えていませんでした。ちょうど商船に乗るための水夫の格好をしていたということもあり、目立つ格好でフラフラと浮ついた気持ちで近くを通りかかったジョンをプレス・ギャングは見逃しませんでした。すぐさま彼は取り押さえられ、軍艦ハリッチ号(HMS Harwich)の水兵として強制連行されてしまったのです。

 ジョン・ニュートン 水兵としての船出

19歳の息子がプレス・ギャングに連行されたことを知った父親は、貿易船の船長をしていた頃のツテを使って、すぐさまハリッチ号のカートレット船長(Captain Carteret)と交渉を試みます。著名な船長の息子ということもあってか、さすがに下船までは許されなかったものの、彼の海軍内の階級を少尉候補生(midshipman)まで特別に引き上げてもらうことに成功しました。

 徴兵されたといっても一生出られないというわけではなく、ある程度の兵役を終えれば解放されることになっていたようで、少尉候補生として大人しく役務をこなしていきさえすれば、ジョンの将来はまだ見通しがきく状態にあったはずでした。しかし、軍艦の上でも頭の中は彼女のことでいっぱいだった彼は、手を焼いてくれた父親や船長の信頼を裏切るかのような行動に出たのでした。

 脱走 三等兵への格下げ

 ちょうどこの頃、オーストリア継承戦争から発展したイギリス・フランス間の植民地戦争は、東インド周辺にも及んでいました。ジョンは、1745年の初頭に軍艦ハリッチ号が東インドへ展開することを知ると、彼は最低でも4~5年は戻って来れないことを直ぐに悟りました。5年近くも彼女に会えなくなることがどうしても耐えられなかった彼は、なんと食料調達を命じられ船を離れた隙にそのまま脱走を試みたのです。

 しかし彼の自由はたった2日間しか続かず、すぐに捕らえられて船に戻されてしまいます。脱走は最悪の場合処刑まであり得る重大な違反行為で、彼の処遇はカートレット船長の一存にかかっていましたが、彼の父親との関係も考慮されてか何とか処刑は免れ、階級を最低ランクの三等兵(Ordinary Seaman)へ格下げすることで事態は収拾したのでした。

軍艦から商船へのトレードに成功

 最低ランクの三等水兵に格下げされ、脱走歴のある下っ端として以前よりも辛い兵役についていたジョン(当時21歳前後)にとって、大きなチャンスが訪れます。

 アフリカ南西の岬である喜望峰(the Cape of Good Hope)への長旅の準備のために、ハリッチ号がアフリカ北西海岸沖カナリア(Canaries)諸島の北方にあるマデイラ(Madeira)島に停泊していた時、ハリッチ号の船員がギアナの商船から二人の腕のある船員を強制徴兵したところ、商船の方も人が少なくなるのは困るとのことで、代わりの船員を二人交換する形を取ることになったのです。

 この様子を見ていたジョンは、脱走による格下げで辛く厳しい待遇から逃れるため、交換要員の一人として自分を任命してもらうようカートレット船長に懇願しました。うまくいけば割と早くイングランドへ戻れるかもしれないとの期待もあったようです。カートレット船長は、脱走歴のある三等水兵を厄介払いできるいいチャンスと考え、彼の必死の要望を受け入れました。ジョンは見事に軍役から解放されたのです。ただ、民間商船の使用人として新たな船出を待つ彼の前に、今後の人生の針路を大きく変えることになる運命の荒波が待ち受けていようとは、この時の彼は知るよしもありませんでした。

 三角貿易に携わるジョン

 ジョンが乗船したギニア商船は、三角貿易(the Triangular Trade)に携わる商船でした。三角貿易とは、イギリスから持ち込んだ衣類や生活用具、武器を黒人達と物々交換し、その後西インド諸島やアメリカ南部の植民地で黒人達を砂糖やたばこなどと交換し、それをイギリスへ持ち帰るというものでした。

 ちなみに、アメリカ南部の植民地に運ばれた黒人達により収穫された綿花はイギリスへ輸出され、産業革命の基盤となったとされています。なお、アメリカ南部の黒人達をめぐって以後のアメリカで国を二分する未曾有の国内戦争が発生したことについては、 『ドナドナ研究室No.006 リパブリック讃歌 歴史編』 で詳しく解説しています。

 ジョンは約半年間、アフリカ南部から川の河口付近へ集められた黒人達を集めて船に乗せる役務をこなしていきました。一連の作業が身についてくると、商船のオーナーであったクロー氏(Mr Clow)に認められ、シエラ・レオネ(the Sierra Leone)の河口付近での作業を一人で任されるようになります。

 この頃のジョンは22歳前後で若く体力もあり、熱帯地方での過酷な作業も精力的にこなしていたのですが、ある時熱病にかかって動けなくなる程に体調を崩してしまい、ある地元の黒人女性に助けを求めます。ところが助けを求めたはずの彼が受けた待遇は、病人への「助け」とは程遠いものでした。

不運な待遇を受けるジョン・ニュートン

 熱病にかかったジョンが助けを求めた女性は、プリンセス・ピーアイ(Princess P.I.)と呼ばれる地元の育ちのいい黒人女性で、現地での最も重要な女主人であり、クロー氏の繁栄は彼女の影響力のおかげでした。

 クロー氏が島を離れている間、何故か彼女はジョンに対して非情なまでに冷たく接し、それまで使用していた小屋を取り上げ、取引される黒人達を収容しておくシェルターに彼を押し込み、食事もほんのわずかな量しか与えませんでした。空腹に耐えかねた彼は、シェルター内に生えていた植物の根を生のままかじって飢えをしのぎました。

 彼女が何故彼にこんなにも冷たく接した理由は定かではありません。クロー氏が戻ってくると、また以前のまともな待遇に戻されましたが、それまでの冷遇をクロー氏に話しても彼は全く対処してくれませんでした。

 彼の不運はまだ続きました。クロー氏の使用人として更に別の船旅に出ていたジョンでしたが、彼がクロー氏を騙そうとしているという根拠のない疑いを他の乗組員からかけられ、クロー氏がそれを信じてしまったのです。ジョンは甲板上に拘束され、食事も一日にご飯一口分しか与えてもらえず、それは陸に着くまで続きました。ちょうど雨季で天候は最悪な中、激しい風雨をさえぎるものはなにもなく、粗末な着衣で空腹で雨ざらしの辛い時間は丸二日も続いたのです。

苦しみに耐えかねるジョン

 ボスであるクロー氏の信頼を失い、島ではプリンセス・ピーアイに嫌われ、アフリカで一人孤立してしまったジョン。厳しい環境の中で辛い仕打ちを何度も受けてきた彼は身も心もボロボロになっていました。そんな彼は、幾何学に関するユークリッドの『原論』(the first six books of Euclid)を読みふけることで、この悲しみや苦しみを紛らわそうとしていました。浜辺の砂浜をノート代わりに独学で理解を進めていったともいわれています。

 ちなみに、ユークリッドは古代エジプトのギリシア系哲学者エウクレイデスの著書で、当時聖書に次いで世界的にベストセラーの人気を博しており、以後の幾何学の発展の基礎となった重要な書籍です。

 やがてつらい状況に耐えられなくなったジョンは、父親に助けを求める一通の手紙を書きます。行方の知れない息子の身を案じた父親は、この手紙を受け取るとすぐに親友のマネスティ氏に再度依頼をして、彼の元へ迎えの船を手配しました。

好転し始める生活環境

 一方で、彼の周りの環境も劇的に改善していきます。彼はクロー氏から他の貿易船で働くことを許され、移った別の船の船長であるウィリアム氏(Mr. Williams)がとてもいい人で、ジョンを一人前のパートナーとして扱ってくれ、貿易のマネージメントまで任せてくれる程に彼を信頼してくれました。ジョンはこの信頼に応えて一生懸命取引に没頭し、仕事に楽しさや充実感まで得られるようになっていたといいます。助けを求める手紙を書いてしまった彼でしたが、もうこのまま帰らなくてもいいとさえ思うようになっていたのです。

迎えに来たグレイハウンド号

 マネスティ氏がジョンのために向かわせたグレイ・ハウンド号(Greyhound)は、黒人を乗せるための船ではなく、金、象牙、蜜蝋などを運ぶ一般の商船でした。折角迎えが来てくれたのですが、すでにジョンを取り巻く状況はかなり改善しており、新しいボスであるウィリアムス氏の下でのビジネスも順調であったため、ジョンはグレイハウンド号に乗ろうかどうか迷っていました。彼を迷わせていたのは、故郷のイギリスで暮らす彼女の事でした。

 一方グレイハウンド号の船長は、ジョンを連れて帰ればマネスティ氏やジョンの父親から報奨金を貰えたため、「イギリスに帰れば年400ポンドの年金がもらえる」とウソまでついてジョンを説得しようとしました。「乗客扱いにするから働かなくて済む」とさえ言ったそうです。ジョンはこのウソを見抜いていたようですが、19歳で海軍に徴集されてから22歳になる今日までずっと会えていなかった彼女に会えるうれしさには変えられず、船長のウソに騙されたふりをしてグレイハウンド号に乗船しイギリスへ帰ることにしたのでした。

グレイハウンド号での長旅~「キリストに倣いて」

 ジョンを乗せたグレイハウンド号は積んでいた商品の取引を終え、1748年1月にイギリスへ向けて出発しました。帰りの道のりは700マイル以上の航路を何ヶ月も船の上で過ごさなければならない程の長旅でした。その間、彼は船に積んであったスタンホープ(Stanhope)著「The Christian's Pattern」を手にしています。

 この書籍はトマス・ア・ケンピス(Thomas a Kempis)著「キリストに倣いて(The Imitation of Christ)」をスタンホープが書き直したもので、「霊的生活の有益なる勧め」、「内的生活の勧め」、「内的慰安について」、「聖体に関する敬虔な勧告」の4部から構成され、世俗の軽視・苦行・克己・献身の勧めをその内容としています。(英訳はこちらで確認可能)。

 この頃のジョンはまったく神の存在を信じてはいませんでした。それどころか、神を信じる周りの者たちをあざ笑い、からかい、神への冒涜を繰り返していたのです。幼い頃には母親からある程度はキリストの教えを受けていたはずですが、長い間海の上で荒んだ生活を続けている内に、見えないものを信じる豊かな心はいつしか失われていたのでした。

 最初はほんの暇つぶしに何気なく読み始めたジョンでしたが、その内容に次第に興味をひかれ始めます。「神なんているわけがない。いないに決まっている。でももしこの本に書いてあることが本当だとしたら?」彼の中にわきあがってくる心の声に彼は慌てて耳を塞ぎ、また仲間との他愛のない笑い話に戻っていくのでした。しかしこの時の彼の疑問は、数ヵ月後の出来事を通してある種の確信へと変わっていくことになるのです。

嵐に巻き込まれるグレイハウンド号

イギリスに向けて出発してから2ヶ月が経過していた3月の初め頃、グレイハウンド号の海路上を激しい西風が猛威を振るい始めていました。ある晩、ジョンニュートンは突然の激しい揺れと船室へ流れ込んでくる海水に驚いて目を覚まします。

 「船が沈む!」

 誰かが叫びました。甲板では船員が激しい波にさらわれ海へと投げ出されていきます。
船体は激しく損傷し強風に舵はきかず、船員が出来ることと言えば必死になって海水を外に汲み出すことぐらいでした。水を汲み出せど汲み出せど激しい波を受けて破損した船体から次々と流れ込んで来る海水。もう沈没は時間の問題かと思われた状況の中で彼らにとって運が良かったのは、積んでいた大量の蜜蝋や木材が水より軽く、それらが何とか壊れかけた船を浮かせるに足りる浮力を持っていたことでした。

 強風がおさまって来たのは明け方の頃でした。
しかし波はまだ依然として荒く、船員達は海に投げ出されないように自分の体をロープでしばりつけ、昼頃になってもまだ海水を必死になってかき出し続けました。船員達は少しでも漏水を食い止めようとシーツや衣類をかき集め、破損した船体の隙間に詰め込み上から板を打ち付けていきます。何時間作業を続けても一向におさまらない漏水に、誰もが最悪の状況を予感しつつも、ずぶ濡れでクタクタの心と体に鞭打ちながら、船員達は休むことなく懸命に体を動かし続けていきました。

 ジョンは9時間以上の排水作業で疲れ切り、半ばあきらめたように横になり休んでいると、しばらくして船長から呼ばれて舵を任されます。彼は、荒れ狂う海原を前に舵輪を握りしめながら、ふとこれまでの22年間の自分の人生を思い起こしていました。母親の死、父親との航海、彼女との出会い、海軍への連行、脱走、黒人取引。母の教えを忘れ、父の期待を裏切り、軍役から逃げ出し、そして神を愚弄しあざ笑っていた自分。

沈み行かんとする船の上で我々が助かるとすればもはや神の奇跡以外にはありえない。
しかし僕のように罪深き人間を神様はきっと許してくれないだろう。彼はそんな絶望的な思いを抱きつつも、最後まで諦めることなく一縷の望みにかけて舵を握り続けたのでした。

 どのくらいの時間が経っていたのでしょうか。
船員総出の努力の甲斐があってか、気が付けば漏水はおさまり、船の揺れも幾分穏やかになっていました。沈没の危機をからくも脱したグレイハウンド号の甲板の上で、ジョンは自分が助かったことがまだ信じられず、ただ呆然と立ちつくしていました。

 もちろんまだ陸についたわけではなく、危険な状況であることには変わりはなかったものの、絶望的とも思えた危機的状況を乗り越えたジョンの目は、まばゆい光の中で自分に手を差し伸べる神の姿が確かに映っていました。
「僕はまだ生きている。今まで数々の不徳を繰り返してきたこの僕が。これが神の所業というものか?神はこんな僕を助けてくれたというのか?」

 大きな危機を一つ乗り越えた彼らでしたが、もう一つの大きな問題の存在に気が付くのにそれほど時間はかかりませんでした。

底をつきかける食料~沖へ流されるグレイハウンド号

 沈没の危機を乗り越えたものの、「食料不足」という問題が彼らを更に苦しめました。
船体の一部を破壊する程の強風と荒波により、家畜はすべて海に投げ出され、食料を入れた樽は砕けて中身が飛び散り、もはや食べられる状態ではなくなっていました。

 運良く残っていたのは塩漬けのタラと飲料水の樽。
これらも少しずつ大切に摂らなければすぐになくなってしまう程の量でした。しかも節約しても岸に着くまで食料が持つという保障は全くなく、風で更に沖へ流されてしまったらもはやそれまでという状況だったのです。

 気が付くと船はアイルランドの西方沖をただよっていました。
遥か遠くのかすみの中に陸らしきものが見えてきたものの、食料が尽きる前に港へ辿りつかんとする船員達の願いもむなしく沖へ沖へと吹き付ける風。なかなか港に近づけずに波間を漂っている間にも確実に減っていく食料。折角必死の努力で嵐の中を乗り越えたのに、自分達はこのまま船上で飢えてしまうのではないか。船員達は不安と空腹と必死に戦いながら、最後の気力を振り絞って、船を陸へ近づけようとできる限りの努力を続けました。

舞い降りる神の奇跡

 そんな彼らの願いが神に届いたのでしょうか。
イングランド沖を2週間も風に流され、食料もまさに底をつきようとし、船員達もなかば諦めかけていたその時、突然風向きが変わり、彼らを陸の方へ導き始めたのです。穏やかな風は、壊れかけた船体を優しくいたわる様に船を港へと近づけていき、ついに彼らは嵐の日から約1ヶ月後の1748年4月8日、アイルランド北部のドニゴール州スウィリー湾(Lough Swilly/Donegal)にたどり着きました。

 着岸したとき船のキッチンでは鍋で最後の食料を調理していたところでした。
更に驚くべきことに、彼らが2時間前にいた風の穏やかな海上は、彼らの船が陸の近くの安全な海域まで達するや否や、嵐のような天候に一変し、それはまるで神が彼らのために少しの間だけ晴れ間をもたらしてくれていたかのようでした。

 奇跡とも言うべき数々の現象を目の当たりにしたジョンニュートン(当時22歳)は、心の底から沸き上がる確信とともにこうつぶやくのでした。

 「私には分かる。祈りを聞き届けてくださる神は存在すると。
私はもはや以前のような不信な者ではない。私はこれまでの不敬を断ち切ることを心から誓う。私は神の慈悲に触れ、今までの自分の行動を心から反省している。私は生まれ変わったのだ。」

一等航海士としての新たな船出

 グレイハウンド号がたどり着いたアイルランドから故郷のイングランドに戻ったジョンは、父親が仕事で航海に出ていたため、父親の友人でありグレイハウンド号のオーナーであったマネスティ氏を訪ねました。当時ジョンはまだ23歳という若さでしたが、マネスティ氏に気に入られ、彼の船の船長として働くことを勧められます。

 ジョンはこの提案をとても喜びましたが、自分にはもう少し経験が必要だと考え、まずは船員として色々な事を学び、納得がいく仕事ができるようになってから船長として働きたい旨をマネスティ氏に伝えました。そこでマネスティ氏は、ジョンをハーディー船長(Captain Hardy)のブラウンロー号(the Brownlow)に一等航海士として乗船させ、将来の船長候補としての経験を積ませることにしました。

 奴隷貿易船だったブラウンロー号は西アフリカへ向かい、熱帯の厳しい気候の中、彼は昔のように川に沿って黒人達を買い集める任務に従事していきました。乗組員や黒人達は熱病で次々に倒れ、黒人達の暴動で死傷者が出るなど、以前と変わらず大変な航海だったようですが、彼は船の上で独学でラテン語の勉強を続け、聖書も少しずつ読み進めていき、知識と精神の向上に努め続けていました。

初恋の彼女へのプロポーズ

 アフリカでの航海を終えてリバプールへ戻ってくると、一等航海士としての役目を立派に果たして帰ってきたジョンの姿を見て、マネスティ氏は約束どおり彼に船長の地位を与え、ジョンもこれを喜んで受け入れました。

 船長としての次の航海シーズンまで時間があったため、ジョンはチャタムにいる初恋の彼女カトレット(ポリー)に会いに行きました。この頃彼女は二十歳過ぎで、ジョンは24歳になっていました。実はブラウンロー号での出港前にも彼女に会いに行っており、その時の彼女は素っ気無い態度にくじけそうになったジョンでしたが、あきらめずにこれまで何度も彼女に思いの丈を手紙で伝え続けていました。

 今回の訪問では何故か優しく接してくれた彼女に、ジョンは勇気を振り絞って結婚を申し込みました。男女の駆け引きというものでしょうか、彼女は彼の一回目のプロポーズを受け入れてはくれませんでした。

 ですが7年越しの恋をそう簡単に諦めるわけには行きません。日を改めて再度彼女にプロポーズをしたジョンでしたが、これまた彼女は首を縦に振ってはくれません。きっと彼女はジョンがどれだけ自分の事を本気で想ってくれているのかを試したかったのでしょう。

 しかしこれまでいくつもの試練を乗り越えてきたジョンです。2回ぐらいの失敗で諦めてしまう程やわな男ではありませんでした。3回目のプロポーズの数日後、彼女はとうとう彼の求愛を受け入れ、1750年2月12日、チャタムの聖マーガレット教会で二人はめでたく結ばれたのでした。

船長としての4年間の航海

 1750年8月に彼が25歳の若き船長として乗り込んだのは、2本のマストを擁するスノー型帆船アーガイル号(The Duke of Argyll)でした。彼の下についた30人の部下の模範となるべく、規律の維持と食料の節制に努めました。

 船内は定期的に清掃され、黒人達もデッキで体を洗ってもらうことができていました。黒人の暴動が起きたときも冷静に対処し、罰を与える時も(当時にしては)人道的な扱いとなるよう心がけていました。仕事の合間を見つけてラテン語の勉強も続けていたようです。

 彼はその後も順調に新たな航海をこなしていきましたが、ある時突然の病気に襲われたことがきっかけとなり、1754年の航海を最後に航海の仕事から身を引いています。

その後のジョンニュートン~驚くべき神の恵み

 病気をきっかけに船を下りたジョンニュートンは、その後マネスティ氏の紹介を受けて、リバプールの潮流調査官を1755年から5年間務めました。その後ジョンは、福音伝道家で英国教会の執事であったジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield/1714-1770)と出会い、彼の熱狂的な弟子となります。一方で、これまで独学で学んできたラテン語にくわえ、ギリシャ語やヘブライ語まで独学の幅を広げ、メソジスト派の創設者であるJohn Wesleyとも交流を深めていきました。

 その後聖職者としての道を歩むことを決意した彼は、ヨークの大司教に一旦は拒否されたものの、イングランド東部のリンカーンの司祭から聖職位を授かり、イングランド中南東部バッキンガムシア州のオルニー教会の牧師となることができました。

 そしてオルニーへ詩人ウィリアム・クーパー(William Cowper)が移り住みジョンと親友になると、彼はジョンと行動を共にし、毎週の礼拝のための賛美歌を共同で書き上げ、ジョン牧師が54歳の1779年に「オルニー賛美歌集」として発表しました。

 この「オルニー賛美歌集」に収められた一篇の詩にいつしかメロディーが付けられ、イギリスからアメリカへ広まり、「アメージンググレース」と名前を変えて、世紀を超えて世界中の人々から愛されることとなったのです。

 1780年にはオルニーを去り、ロンドンの聖メリーウールノース教会(St. Mary Woolnoth, London)の司祭となって晩年まで説教を続けました。彼が人々に与えた影響は計り知れない程大きく、その中には後にイギリスにおける奴隷制度廃止運動の指導者となるウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce)の名前もありました。

 82歳を迎えた1807年12月21日、ジョンニュートンは神の御許へ旅立っていきました。晩年、彼はこんなことを述べていたそうです。

"My memory is nearly gone, but I remember two things,
that I am a great sinner, and that Christ is a great Saviour."

「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。
一つは、私がおろかな罪人であること。
もう一つは、キリストが偉大なる救い主であること。」




■ http://www.worldfolksong.com/closeup/amazing/root/page1.htm

■ http://www.worldfolksong.com/closeup/amazing/root/page6.htm

  ついにめぐり合うメロディーと歌詞
一緒になるべき歌詞を求めてあちこち彷徨っていたメロディが、ついにジョンニュートンの歌詞と出会うことになるのは、1835年のことでした。南キャロライナ出身のウィリアム・ウォーカー(William Walker)が、それまで用いられていた源流のメロディーを「New Britain」と新たに命名し、彼なりのアレンジを加えた上で、ジョン・ニュートンのAmazing Graceの歌詞に初めて用いたのです。この「New Britain」が収められた歌集「サザンハーモニー(Southern Harmony)」は、主にアメリカ南部の州で発売され、当時としては60万部以上の大ヒットを記録したようです。

 「New Britain」が生まれた1835年のアメリカ

 アメージンググレースの原曲「New Britain」が発表された1835年のアメリカは、独立宣言(1776年)から60年が経過しており、英米戦争(1812-15)終結後、ルイジアナへと盛んにフロンティアを西へ西へと押し進めていた頃でした。1840年頃からは太平洋沿岸の新天地オレゴンへと開拓を進め、その道筋は「オレゴン街道」と呼ばれています。スペインとの戦争の結果、1848年にはメキシコ北部のニューメキシコとカリフォルニアを獲得し、同年、カリフォルニアで金脈が発見されています(ゴールドラッシュの始まり)。

「New Britain」のメロディーのルーツは?

 「New Britain」のメロディーの源流がどこの国で生まれたメロディーなのかについては諸説ありますが、スコットランド民謡の典型として知られるペンタトニック・スケール(pentatonic scale)に基づいてメロディーが構成されていることから、古いスコットランド民謡ではないかという研究者がいるようです。

 ペンタトニック・スケール(pentatonic scale)とは、別名5音音階とも言い、1オクターブの間に音程が5つしかないスケールの総称です。「ペンタ」はギリシャ語で数字の「5」を表し、5角形をしたアメリカ国防総省ペンタゴンの「ペンタ」もここから来ています。スコットランド民謡の他、沖縄民謡もこのペンタトニック・スケールに基づいて構成されています。スコットランド民謡「蛍の光」などは、典型的なペンタトニック・スケールに則ったメロディーと言えます。

【関連ページ】 スコットランド民謡 「蛍の光(Auld Lang Syne)」歌詞と解説 MIDI

 ちなみに、このペンタトニック・スケールに対応する音階として、日本では「ヨナ抜き音階」があります。明治時代にヨーロッパから新しい七音階が導入されたとき、その七音階にはそれぞれ「ヒフミヨイムナ」というカタカナが当てはめられ、その第4音の「ヨ」と第7音の「ナ」にあたる音を抜いて作られたのが「ヨナ抜き音階」と呼ばれる音階です。西洋の音階になかなか馴染めなかった当時の日本人にも受け入れられやすい音階として、数多くの民謡・童謡に採用されています。

 メロディーは本当にスコットランド生まれ?

 現時点では、「New Britain」が発表された以前のスコットランド民謡に関する資料の中に、「New Britain」のメロディーの源流らしきメロディーは見つかっていないようなので、スコットランド民謡であるという説はまだ裏付けられていない状態です。

 アメリカは移民の国ですから、もしかしたらスコットランド系の移民がアメリカで作曲したのかも知れませんし、他の国の人がスコットランド民謡の音階を用いて新たに作曲したという可能性も考えられますが、真s相は闇の中です。

 なお、曲と歌詞をセットで捉えた場合、一体どこの国の民謡なのでしょうか?

今日知られる歌詞とメロディーが確定的に固定された状態で広まった最初の国はアメリカであり、それらが定着してから最も長い時間が経過している国であることを考えれば、今日知られる「アメージンググレース」はアメリカ民謡と捉えて問題はないと思われます。「黒人霊歌」としての側面もありますが、それに限られるものでもありませんので、より広く「民謡」として把握するのが実態に合っているのではないでしょうか。

 これからも愛され続けるアメージンググレース

 22歳の時の奇跡的な体験を基に、その後牧師になったジョンニュートンが過去を振り返りながら30年後のイギリスで記した6節の賛美歌は、その後アメリカに渡り、様々なメロディー達と出会い、今日の姿に定着していきました。その神秘的な旋律と深みのある詩は世界中の人々に感動を与え、魂の救いとなってきました。

 アメージンググレースは、黒人霊歌や賛美歌、クラシック、ポップス等、様々な形でそれぞれの時代に合った姿にアレンジされながら、これからも国や地域を超えて世界中の多くの人々に末永く愛され続けることでしょう。


ドナドナ研究室 「アメージンググレースの謎 曲のルーツ編」  完
http://www.worldfolksong.com/closeup/index.html





















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