右腕のない英雄 ダニエル・イノウエ米上院議員 死去  第442連隊(日系人)

  
2012.12.18

ダニエル・イノウエさんが亡くなったと聞きました。

母国 日本の安全保障の意識の低さを心配していたかたです。
自分達の文字通りの血肉で 母国アメリカへの貢献と敢闘とから アメリカ国民として認められた第二次世界大戦の勇者たちから 戦後の日本、いまの日本はどのように見えていたのでしょうか。
 ◆ 中国共産党・人民日報が安倍晋三新首相へ3つ指摘し、内政干渉を開始

日本とアメリカの同盟のきずなを強くすることに心をくだき、
母国 日本を外から守ってきた アメリカ日系人部隊 第442連隊の英雄
ダニエル・イノウエの ご冥福を祈ります。




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◆ 第二次大戦中、日系人の志願兵で米陸軍第442連隊が結成されました。
◆ 米上院のダニエル・イノウエ議員と会い F22 よりも人脈を
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■ 元日系米兵の信念 「投票は 戦って手にした権利」  2012.11.1 産経
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■ ダニエル・イノウエ Wikipedia

1963年から47年以上にわたって上院議員に在任していた長老議員であり、上院民主党の重鎮議員の1人であった。2010年6月28日に最古参であったロバート・バード上院議員が死去したことで、上院で最も古参の議員となり、またこれに伴い慣例に沿うかたちで上院仮議長に選出された。上院仮議長は実質名誉職ではあるものの、大統領継承順位第3位の高位であり、アメリカの歴史上アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位のものとなる。また第二次世界大戦時はアメリカ陸軍に従軍し、数多くの栄誉を受けた。

 受章した名誉勲章への感状
ダニエル・K・イノウエ少尉は1945年4月21日、イタリアのサン・テレンツォ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。重要な交差点を守るべく防御を固めた稜線を攻撃している間、イノウエ少尉は自動火器と小銃から浴びせられる射撃をかいくぐって巧みに自身の小隊を指揮し、素早い包囲攻撃によって大砲と迫撃砲の陣地を占領し、部下達を敵陣から40ヤード以内の場所にまで導いた。掩蔽壕と岩塊からなる陣地にこもる敵は、3丁の機関銃からの十字砲火により友軍の前進を停止させた。

イノウエ少尉は自らの身の安全を完全に度外視し、足場の悪い斜面を最も近くにある機関銃から5ヤード以内の位置まで這い上がり、2個の手榴弾を投擲して銃座を破壊した。敵が反撃を仕掛けてくる前に、彼は立ち上がって第2の機関銃座を無力化した。狙撃手の弾丸によって負傷するも、彼は手榴弾の炸裂によって右腕を失うまで、至近距離で他の敵陣地と交戦し続けた。激しい痛みにも関わらず彼は後退を拒否して、敵の抵抗が破れ、部下達が再び防御体勢に入るまで小隊を指揮し続けた。攻撃の結果敵兵25名が死亡し、8名が捕虜となった。イノウエ少尉の勇敢かつ積極的な戦術と不屈のリーダーシップによって、彼の小隊は激しい抵抗の中でも前進することができ、稜線の占領に成功した。

イノウエ少尉の 類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍の最も崇高な伝統に沿うものであり、また、彼自身やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな栄誉をもたらすものであった。

右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめた。
ダニエル・イノウエ02



■ 第442連隊戦闘団 Wikipedia

第442連隊戦闘団(英: 442nd Regimental Combat Team)は、第二次世界大戦中のアメリカ合衆国陸軍において日系アメリカ人のみで編成された部隊。ただし士官はその限りではない。ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が示している。アメリカ合衆国史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られる。 第二次世界大戦中、約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどは本団、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属された。

・・・ 1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊(通称:テキサス大隊 テキサス州兵により編制されていたため)がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」 (Lost battalion) と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。 10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。

しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重症を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、442部隊の一少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった。

また、失われた大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)にダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ。」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理ミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。残りは戦死か入院です。」と答えたという話が残っている。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえ出来なかった。これは第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたためである。

「ショックの余り」の訳は、ニュアンスが正しくないように思います。
「胸がつまって」とか「突然 思いがこみあげ」という心境かと。

同団が強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げたことに対して、1946年にトルーマン大統領は、
'You fought not only the enemy, you fought prejudice---and you won.
 (諸君は 敵のみならず偏見とも戦い勝利した。)' と 讃えている。

442連隊の戦後
442連隊の勇戦もむなしく、戦後もアメリカ白人の日系人への人種差別に基づく偏見は変わらなかった。

部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちも、白人住民から「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といった敵視・蔑視に晒され、仕事につくこともできず財産や家も失われたままの状態に置かれた。

また、現在のアメリカ陸軍では、
442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は必修課程
となっている。



アメリカは、彼の勇気を讃え、栄光と名誉を与え、市民権(投票権)を添えています。
また、後進たちが必ず学び 忘れられないよう歴史に刻んでいます。
そして、彼の勇気を アメリカ陸軍の根本の精神に加えています。 

ダニエル・イノウエは、アメリカ大統領が急になくなったときの(戦争など) 継承順位 第3位だったそうですが、ダニエル・イノウエの示した勇気と貢献に アメリカという国を采配できるまでの信頼で臨むアメリカは 評価を惜しまない 度量のある国の一面があると感じます。


日系人部隊の編制

1941年12月の真珠湾攻撃に伴い、アメリカ合衆国は大日本帝国に対して宣戦を布告した。その後アメリカ軍は各地で敗退を続けたこともあり、アメリカ政府は日本軍のハワイ侵攻及び本土進攻を恐れていた(後に日本海軍の潜水艦によるアメリカ本土砲撃や、艦載機によるアメリカ本土空襲が行われている)上に、その際のアメリカ国内の日系人社会の動向を、黄色人種に対する人種差別的感情を背景に不安視していた(実際に同じく敵国であったドイツ系やイタリア系アメリカ人については、大がかりな強制収容は行われなかった)ことなどから、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。

なお、ハワイ居住の日系人については、全体の人口に対して、その率が島によっては人口の半分程度とあまりにも多く、社会が成り立たなくなると同時に膨大な経費と土地を必要とすることになるため、ハワイ当局は、日系人社会に対して影響力が高いとみられた日系人会幹部や僧侶ら数百人程度をホノルルのサンド・アイランド(一部は本土)に強制収容したのみであった。

第二次世界大戦の戦争目的として、日本は「アジアの白人支配からの打倒」を謳い、アメリカでの日系人の強制収容を「白人の横暴の実例」として宣伝していた。アメリカはそれに反駁する必要に迫られ、日系人の部隊を編制することになった。また、高い士気を持った第100歩兵大隊が、軍事訓練においてひときわ優秀な成績をあげたこともこれを後押しした。

1942年6月に、在ハワイの日系二世の陸軍将兵、約1,400名は「ハワイ緊急大隊」に編成され、ウィスコンシン州に送られた。同地のキャンプ・マッコイで部隊は再編され、第100歩兵大隊'(100th infantry battalion)と命名される[3]。大隊長以下3人の幹部は白人だったが、その他の士官と兵員は日系アメリカ人で占められていた。ここで部隊は訓練を重ね、1943年1月にはミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに移駐する。これ以前にも、既に3,500人の日系人がアメリカ軍でさまざまな任務に当たっていた。

1943年1月28日、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始められた[3]。部隊名は第442連隊であるが、歩兵連隊である第442連隊を中核に砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団として編成されることとなった。ハワイからは以前から大学勝利奉仕団で活躍していた者を含む2,600人、アメリカ本土の強制収容所からは800人の日系志願兵が入隊した。本土の強制収容所からの入隊者が少ないのは、各強制収容所内における親日派・親米派の対立や境遇が影響していたが、ハワイでは事情が異なり、募集定員1,500人の6倍以上が志願したため[3]、定員が1,000人増やされた。なお、徴兵年齢(18-39才男性)の日系人人口は、ハワイで23,000人強、本土では25,000人程度で大差はなかった。

編成当初、背景事情の違いから本土出身者とハワイ出身者の対立は深刻で、ハワイ出身者は本土出身者を「コトンク(空っぽ頭)」、自分たちを「ブッダヘッド(刈上げ髪を揶揄した言葉、もしくは釈迦の頭)」と呼んで互いに嫌いあい、第100歩兵大隊の兵士も加わった暴力沙汰もあった[4]。

そこで上層部は、双方の対立を解消すべく、ハワイ出身者に本土の強制収容所を見学させることとした。彼らは当初「自分達と同年代の女の子達に会える」と喜んでいたものの、有刺鉄線が張り巡らされ、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然の現状を目の当たりにして、如何に本土出身者が辛い状況に置かれているかを知り、対立は解消されることとなった[5]。

なお、日系人部隊の合言葉であった"Go for broke!"(「当たって砕けろ!」、「死力を尽くせ!」[1]、「撃ちてし止まん」[6])は、元来は有り金すべてをつぎ込むことを意味するハワイ(ハワイの移民プランテーションでは、賭博が盛んに行われていた)のギャンブル用語であり、ピジン英語である。

ヨーロッパ戦線での活躍

日系人部隊は当初、白人部隊の「弾除け」にされるのでは、という軍上層部の危惧により戦闘には投入されなかった。1943年8月に北アフリカのオランに到着した第100歩兵大隊の配備先は未定だったが、大隊側からの希望によって、9月22日に第34師団第133連隊に編入され、イタリアのサレルノに上陸した。29日にはドイツ国防軍と遭遇し、初の戦死者を出した。

1944年1月から2月にかけて、ドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」の攻防において激戦を繰り広げた。5月には、ローマ南方の防衛線「カエサル・ライン」の突破にも活躍している。ローマへの進撃の途上で激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘にも従事し、多大な犠牲を払った。部隊はベネヴェントで減少した兵力の補充を受け、ローマを目指したが、軍上層部の意向によりローマを目前にして停止命令が出され、後続の白人部隊が1944年7月4日に入城してローマ解放の栄誉を手にした。結局、部隊はローマに入ることを許可されず、ローマを迂回しての北方への進撃を命じられた。

イタリアに到着していた第442連隊は第1大隊が解体されたため1個大隊欠けていた編成となっていたので、6月に第100歩兵大隊を第442連隊に編入して[2]、第442連隊戦闘団をベルベデーレ、ピサなどイタリア北部での戦闘に参加させた。

1944年9月に部隊はフランスへ移動し、第36師団に編入された。10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘を行う。10月15日以降、ブリュイエールの街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げた[2]。一帯は、山岳・森林地帯であるため戦車が使えず、歩兵の力のみが頼りであった。20日には町を攻略したものの、第36師団長J・ダールキスト少将の命令により、引き続き町東方の攻略を継続した。なお戦後のブリュイエールでは、部隊の活躍を記念して通りに「第442連隊通り」という名称がつけられた。なお、ブリュイエールでは1994年10月15日には442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われている。

1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊(通称:テキサス大隊 テキサス州兵により編制されていたため)がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」 (Lost battalion) と呼ばれ始めていた[2]。10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。

10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。

しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重症を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、442部隊の一少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった。また、失われた大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)にダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ。」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理ミラー中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。残りは戦死か入院です。」と答えたという話が残っている。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえ出来なかった。これは第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたためである。

再編成を行った第442連隊戦闘団はイタリアに移動し、そこで終戦を迎えている。隷下の第522野戦砲兵大隊は、フランス戦後はドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊・ダッハウの強制収容所の解放を行った。しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は1992年まで公にされることはなかった。



442連隊の戦後

442連隊の勇戦もむなしく、戦後もアメリカ白人の日系人への人種差別に基づく偏見は変わらなかった。

部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちも、白人住民から「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といった敵視・蔑視に晒され、仕事につくこともできず財産や家も失われたままの状態に置かれた。

1960年代になると、アメリカ国内における人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになる。

442連隊戦闘団は1946年にいったん解体されたが、1947年には予備役部隊として第442連隊が再編制され、ベトナム戦争が起こると、1968年には不足した州兵を補うために州兵団に編入された。その後、第442連隊は解体されたが、連隊隷下部隊のうち第100歩兵大隊が予備役部隊として残っている。部隊は、本部をハワイのフォートシャフターに置き、基地をハワイ、アメリカ領サモア、サイパン、グアムなどに置いている。部隊は統合や再編制を繰り返しているが、現在も主力は日系人を含むアジア系アメリカ人が占めている。

2004年8月に、第100歩兵大隊は第29独立歩兵旅団(ハワイ州兵)の大隊機動部隊の一つとして、イラクにおける任務のために活動を再開した。部隊はハワイのスコーフィールド・バラックス (Schofield Barracks) にて動員され、テキサス州のフォート・ブリス (Fort Bliss) で2004年訓練を受けた。その後、ルイジアナ州のフォート・ポーク (Fort Polk) で練成度を確認され、2005年3月よりイラクで任務に就いている。これは2006年に帰還している。

なお、同団が強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げたことに対して、1946年にトルーマン大統領は、'You fought not only the enemy, you fought prejudice---and you won.(諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した。)'と讃えている[8]。

また、現在のアメリカ陸軍では、442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は必修課程となっている。

2010年10月にオバマ大統領は、442連隊戦闘団と陸軍情報部に、アメリカ合衆国において最高位の勲章である議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名した[9]。






■ 知日派のダニエル・イノウエ米上院議員が死去  2012年12月18日 読売

【ワシントン=中島健太郎】米民主党の重鎮であるダニエル・イノウエ上院議員(ハワイ州選出)が17日午後、呼吸不全のためワシントン郊外の病院で死去した。 88歳だった。 イノウエ氏の事務所が発表した。日系2世の同氏は1962年から上院議員を務め、米政界に影響力のある知日派議員だった。



■ 米議会重鎮 D.イノウエ議員死去  12月18日 NHK

アメリカ議会の重鎮で、日本とアメリカの親善に尽くした日系のダニエル・イノウエ上院議員が17日、呼吸器系の疾患のために亡くなりました。 88歳でした。 ダニエル・イノウエ議員はハワイ生まれの日系2世で、1962年に日系人として初めて当選して以来、50年にわたって上院議員を務めてきました。 議会上院の仮議長も務める与党・民主党の重鎮で、親日家の1人として日米の政界をつなぐ重要なパイプ役をつとめてきたほか、東日本大震災からの復興を支援するため被災地を訪れるなど、日米関係を強化する取り組みを続けていました。 日米の友好親善に尽くした功績がたたえられ、去年、春の叙勲で「桐花大綬章」を受章しました。 イノウエ議員は体調を崩してこれまでも入退院を繰り返していましたが、17日、首都ワシントン郊外の病院で呼吸器系の疾患のため死去しました。



■ イノウエ米上院議員死去 日系人の地位向上に貢献、最後の言葉は「アロハ」2012.12.18 産経

【ワシントン=佐々木類】ダニエル・イノウエ米上院議員(ハワイ州選出)が呼吸器合併症のため、ワシントン市内の病院で死去していたことが17日分かった。米メディアが一斉に伝えた。88歳。最後の言葉は「アロハ」だったという。イノウエ氏は日系人の地位向上に貢献した民主党の重鎮だった。

ダニエル・イノウエ
ダニエル・イノウエ上院議員=2010年7月、ホノルル(AP)




■ “日米の人のつながり”の大切さ主張  12月18日 NHK

日系二世としてハワイで生まれたダニエル・イノウエ議員は、まだ日系人への差別が根強かった第二次世界大戦中に陸軍に志願してヨーロッパ前線で戦い、後にその功績をたたえられました。
アメリカへの忠誠心を持つ一方で、父や祖父母の出身である日本への強い想いも抱き続け、「日米の人と人とのつながり」の大切さを常に主張してきました。

ことし10月にNHKのインタビューに応じた際には日米関係について、「同盟関係においては、指導者や外交官だけでなく、人と人との関係が大切だ。とりわけアメリカにいる日系の若者たちは、海を越えた日本の若者ともっと知り合いたいと考えている」と話していました。

そのうえで、日米間の懸け橋を目指してきたみずからの活動について、「できるだけのことを行い、成功させてきたつもりだ。私の祖父母と両親が、喜んでくれていればよいと思う」と話していました。また、沖縄県の尖閣諸島を巡って日中間の緊張が高まったことについて、「いまや大国となった中国があのような行動に出るとは非常に深刻だ。無視するわけにはいかない」と懸念を示すとともに、「アジア太平洋地域の安定を保つためにも、今ほど日米関係の強化が重要なときはない」と述べ、強固な日米関係の重要性を改めて強調していました。





■ 日米関係の深層に損失 慰安婦問題でも日本側の心情に配慮  2012.12.18 産経

【ワシントン=古森義久】米国上院長老のダニエル・イノウエ議員の死去は日米関係の深層にも大きな損失として波紋を広げた。イノウエ議員が近年、日米両国間の慰安婦問題など複雑な課題でも日本側の立場や心情に配慮した言動をとってきたからだ。

 イノウエ氏の半生は自らの「日本」を否定することでもあった。日米開戦で日本側との絆を疑われて集団収容された日系米人たちが米国への忠誠を誓って米軍に志願し、欧州戦線で活躍した。イノウエ氏はその中心人物だった。

 戦後、連邦議員となってからもイノウエ氏は長年、

日本側と接触しなかった。1980年代の日米貿易摩擦でもあくまで米国政治家として日本の市場閉鎖性などを非難した。だがここ10数年来、日米の利害の激しい衝突がなくなると、むしろ両国関係の緊密化のために活動し、2007年6月、下院が日本の慰安婦問題非難の決議を推進したときは、「もう済んだ過去の問題で現在の友好を傷つけるな」と正面から反対した。

イノウエ氏は戦争中に日本軍捕虜となった米国人たちの抗議でも和解を求め、最近では普天間基地問題にも両国の歩み寄りを提唱し、さらに2011年には北朝鮮に家族を拉致された「家族会」の人たちにも会って、熱い支援を送っていた。

 イノウエ議員の日米関係への深いかかわりは2008年5月まで6年半も駐米大使を務めた加藤良三氏の説得も大きかった。加藤氏の送別パーティーではイノウエ議員が送別の乾杯を提唱し、別れを惜しんでいた。

ダニエル・イノウエ
ホワイトハウスで文書に署名するオバマ米大統領と
ダニエル・イノウエ上院議員(左)=2009年7月(AP)





■ 論説委員・鳥海美朗 イノウエ米上院議員の忠告 2011.7.16 産経

米連邦上院の重鎮であるダニエル・K・イノウエ議員(86)から手紙が届いた。

 6月初め、来日していたイノウエ氏の日本記者クラブ(東京)での講演会に行った折、私が書いた本欄コラム(昨年11月27日付「色褪(あ)せない日系2世の勲章」)のコピーを手渡している。高名な日系人政治家からの律義な礼状には恐縮するばかりだ。

 「第二次大戦で軍務に就いた日系アメリカ人兵士を取材したあなたのコラムのコピーを、直接私に渡してくださった気配りにとても感謝しています」

 短い文面に、日本語が堪能なスタッフの助けを得ながらコラムを読み返し、中身を正確に理解しようとする氏の真摯(しんし)な姿勢が滲(にじ)む。太い筆記体の署名だった。

 ◆最善を尽くした2世

 イノウエ氏に読んでほしいと思ったコラムは、オバマ米大統領が昨年10月、第二次大戦中に欧州で戦った米陸軍の日系人部隊「第442連隊戦闘団」に対し、米国では最高位のメダルである「議会名誉黄金勲章」を授与したことに触発されたものだった。イタリア戦線での右腕を失う奮戦で知られるイノウエ氏は日系人兵士の代表的存在だ。

 日米関係をテーマにした件(くだん)のイノウエ氏の講演会で、私は勲章の意義に加えて、「日系アメリカ人が戦後の日米同盟に果たした役割」についてコメントを求めた。すると、氏は自らの体験を淡々と語り始めたのである。

 1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃の後、米社会が真っ先に日系人に憎悪の目を向けたこと、ハワイ生まれのイノウエ青年は「4C(日系の敵性外国人)」という屈辱の記号分類があてがわれたこと、そして強制収容…。

 「それでも、日系2世らの85%は志願して戦場に赴きました。442連隊戦闘団は米国の歴史上、最も多く勲章を受けた部隊です。われわれは日系人がどういう存在であるかをアメリカ全体が理解するよう最善を尽くしたのです」

 ◆「義務」と「名誉」

 イノウエ氏は祖父が福岡県、祖母は広島県の出身という。長男として育てられた氏は、父母から2つの言葉を教え込まれた。「義務」と「名誉」である。

 「日系人が親から子へと引き継いだ、重要な言葉です」

 59年、連邦下院で初の日系議員になったイノウエ氏は62年には上院議員に転じた。以来半世紀がたつ。民主党リベラルの長老であり、80年代の日米貿易摩擦のころには日本側の貿易慣行を厳しく非難したこともあった。

 一方、慰安婦問題で日本政府を糾弾する下院外交委員会の決議(2007年)には「良好な日本との関係を危険にさらす」と強い反対声明を出した。硬骨の政治家なのだ。

 イノウエ氏は「米国の国益」を行動の軸とする。同時に日系人の誇りを胸に日米同盟の深化に全霊を傾けている。そう確信したのは、氏が講演後の質疑応答で、こう問い返したときだった。

 「なぜ、私が上院歳出委員長に選ばれたと思います?」

 上院歳出委員会は軍事予算を決定するなど「米議会で最も強力な委員会」といわれる。

 「その委員長に(日系人の)私が選ばれたのは、米国のリーダーたちが日米関係の重要性を真剣に考えているからです」

 ◆中国の脅威

 イノウエ氏はこの講演で、あえて中国の軍備増強に論及した。

 「中国は『われわれが他国を侵略する必要はない』と言いながら空母を建造し、多数の潜水艦や高度なICBM(大陸間弾道ミサイル)を配備し、サイバー攻撃を強行している。衛星を撃ち落とす能力もある。(米議会の)皆が懸念を抱いています」

 尖閣諸島など日本の領土を含む東シナ海や南シナ海での最近の中国の強圧的な動きを念頭に、イノウエ氏は信念を語った。

 「日本における米軍の存在は日米双方の安全保障のためであり、この地域で問題を起こそうという国に対し抑止力になる」

 米軍普天間飛行場の移設問題などでの日本の民主党政権の迷走と優柔不断に米政府はうんざりしながらも、東日本大震災が起きると最大限の支援を惜しまなかった。その背景に、第二次大戦という修羅場をくぐってきた日系人政治家が米国内で培ってきた公平な対日観があったのは間違いない。

 東北の被災地を訪れたイノウエ氏は、日米トモダチ作戦を「誇りに思う」と話したが、普天間問題に関してはこうも言った。

 「堪忍袋の緒が切れることもあると申し上げたい」

 日本人を祖先にもち、米大統領の継承順位で現在3位にいるアメリカ人からの重い忠告である。(とりうみ よしろう)





■ 元日系米兵の信念 「投票は戦って手にした権利」  2012.11.1 産経

病床で娘らに記入してもらい期日前投票を行う日系男性の写真が、大統領選(11月6日)を控えた米国で感動を呼んだ。ハワイ在住のフランク・タナベさん(93)は第二次大戦中、強制収容所から志願して米兵となり、市民(投票)権を取得。以来投票を欠かしたことは一度もなく、がんと診断され死期が迫っても、それは変わらなかった。きょうのテーマは「価値あるこの一票」とした。

 元 日系米兵の執念

 AP通信によると、タナベさんは2カ月前、「肝臓がんで手術不可能」の診断を受け、自宅で痛みをやわらげる治療を受けていた。「投票用紙はまだか」と繰り返すので、娘のバーバラさんが「心配しないで。きっと届きますよ」となだめていたのだが、10月17日に到着。早速投票作業に取りかかった。バーバラさんが候補者の名前を読み上げ、記入する。タナベさんは「イエス」と言ってうなずくか、「ノー」と言って首を振るかした。

 この様子を収めた写真を孫のノアさん(男性)がネットに掲載すると、60万人以上が閲覧し、「真の愛国者」「これがアメリカだ」といった称賛のコメントが書き込まれた。この現象をマスメディアが取り上げ、「元米兵の愛国行為」(ロサンゼルス・タイムズ紙)は多くの人々の知るところとなった。

  強制収容所

 大戦中、米国の日系人は「敵性外国人」として、各地のキャンプ(強制収容所)に収容された。報道によると、タナベさんは最初、アイダホ州のミニドカ収容所、その後、カリフォルニア州のツールレイク収容所に入れられた。大学生だったが、卒業できなくなった。タナベさんは志願して陸軍に入隊。1943年、米市民権を取得した。日系米兵を取り上げたドキュメンタリー映画で、タナベさんは志願の動機を「日系人が敵性外国人でないことを示すため、自分ができることをした」と話している。

 配属されたのは、日本軍の暗号の解読や日本語文書の翻訳、捕虜尋問の際の通訳などにあたる陸軍情報部(MIS)だった。昨年11月、米軍日系人部隊に米国で最も権威のある勲章の一つ「議会金メダル」が授与された。MISも対象の一つだった。タナベさんは「すべての外国系米国人を代表してメダルを受け取りたい。私たちは団結して国を守った」とハワイの地元紙に語った。

 タナベさんは市民権取得の43年以来、すべての選挙に投票した。

候補者の品定めのため、今回も記入の数日前まで丹念に新聞を読んでいた。バーバラさんは「父にとって投票は、収容され、入隊し、戦争へ行き、差別と戦ってようやく手にした権利なのです」と話した。


 期日前投票の行方

 AP通信によると、タナベさんは10月24日午前6時45分、ホノルルの自宅で死去した。写真が話題になっていることは、家族からタナベさんに伝えられていた。バーバラさんは「父親が収容されたキャンプがあった2つの州の新聞、ロサンゼルス・タイムズ紙とアイダホ・ステーツマン紙で記事になったことも教えた。人生を振り返って良かったと思えるのはすてきなこと」と話した。

 タナベさんの写真に感動した人々の多くが、死去によってこの一票が無効になることを心配していた。ハワイ州では、死亡した有権者の期日前投票は、投票日までに州保健当局から選管当局に対し死亡の連絡があれば無効になる。ハワイ州選管当局者はしかし、「保健当局から連絡があっても、たくさんの投票用紙から死亡者の1枚を見つけるのは困難なため探さない」と語った。

タナベさんの一票は有効ということだった。 編集委員 内畠嗣雅


フランク・タナベ
「議会金メダル」のレプリカを示すフランク・タナベさん
=昨年11月、ワシントン(AP)



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