壊血病,脚気の歴史から考察。 「生アーモンド健康法」 エドガー・ケイシー03

イコさん ありがとうございます。
記事をお借りしました!


エドガー・ケイシー由来の健康法をいくら紹介しても
エドガー・ケイシーへの信頼がなければ、健康法は理解されません。

ですから、いくら「生アーモンドが癌を防ぐ」というリーディングを紹介しても、記事の読み手に、そして話の聞き手に、ほとんど 心に響かないのが実状です。


ビタミンがまだ発見されず、ビタミンという健康知識がまだ未確定だったころ、明治時代の日露戦争は、戦死者に匹敵するほど、脚気で病死する人が多かったです。(記事巻末参照)

未発見の健康知識は、むかしも いまも、山のようにあるでしょう。


エドガー・ケイシーへの信頼は、50年前の同じ時代に生きた人でない限り、現代人なら、もうエドガー・ケイシーの人生そのものが信頼できるかどうかで、測ってもらうしかありません。


ですので、伝記はとても大切です。
その伝記への導きに、伝記の抄録がなります。
.


イコさんの抄録には、内容だけでなく、エドガー・ケイシーの伝記を読んでみようかなという関心につながる、素晴らしい価値があります。

イコさんの伝記の抄録の記事で、エドガー・ケイシーに関心を持ったれたかたは、伝記をお読みになられてみてください。
誠実で、愛情深く、温和で、信仰に篤い クリスチャンのかたの人生は、宗派を越えて、感動することと思います。

エドガー・ケイシーは、感動する人生そのもので、多くの人々に、
地上生活以外にも、大切な魂の世界での生活がある事への信頼を作っています。


仏教徒の多い日本人なら、輪廻転生はなんとなく、そういうものかな…
という風土があります。
 ■ 「輪廻転生」の神秘   1月3日(土) 中韓を知りすぎた男

しかし、欧米やフィリピンなど、キリスト教の国々では、キリスト教に輪廻転生の教えが明確には説かれていないです。
天国はあっても、その先がわかりません。
イエスキリストは、教えを説いて3年で磔刑となり、地上を去られていますので、霊界について、魂についての教えを説く時間がなかったです。
エドガー・ケイシーの、輪廻転生を説き、霊界の世界を説く、リーディングは、大きな救いになっていると思います。


エドガー・ケイシーの人生が信じられるかどうかは、
「生アーモンド健康法」が信じられるかどうかだけでなく、
彼のライフ・リーディングにある、輪廻転生が信じられるか、魂の真実の姿が信じられるかどうかにつながっていきます。

エドガー・ケイシーにご縁のあるかたが、この記事をここまでお読みになられています。
もしも、よかったら、伝記をお読みになられてみてください。
生アーモンドは地上での健康生活に役に立ちますが、魂があり、神仏があるということへの確信はもっと大きな値打ちがあります。



神仏はあります。 魂はあります。
だから、神仏が喜ばれるような、立派な人生を送らねばならないです。


立派な人生とは、
自分を健康し、家族を愛し大切にし、地域を愛し、仕事を愛し、
仕事仲間とともに大きな仕事をし地域に貢献し 多くの人の役に立ち、
日本を愛し、日本を発展させることです。

人を愛し、人を慈しみ、自他共に幸せになることです。





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壊血病は、問題が大きかったので(バスコ・ダ・ガマの乗組員の死亡数を参照)、やがて経験的に対処されて、あとからビタミンCが見つかりました。

脚気は、経験的に対処されていたのに、
原因物質を突き止めることが先になり、経験的な対処が妨げられました。
矢が飛んできて刺さったのに、これは誰が射たのか。どの方向から飛んできたのだろうか。と、矢を抜いて治療すればいいものを、問題点が刺さったまま会議していたわけです。


生アーモンドから、癌に効果がある多糖類が、のちの研究で見つかることでしょう。

それを薬学で証明されるまでまで待つのか、
それとも、脚気に麦飯が効くのならという感じで、癌に生アーモンドが効くのか食するのか、 
ということです。


ただし、今のところ、生アーモンドが癌の予防に効くという知識は、経験的な対処にすらなってはいないうんと前の段階です。
ですから、エドガー・ケイシーの人生を読んでみて、こういう人が言うなら、「なるほどそうかも」と信じれるかどうかが鍵です。




ちなみに、漢方の薬草の知識はすごいです。
最初に、薬草の薬効はどうやって発見されたのでしょうか?

村の賢女や神官や僧侶や巫女やそういうかたたちが、野山でインスピレーションを受けない限り、この草がどの病気に効くなど、わかりっこないのです。

問題点と解決法は、鍵と鍵穴の関係ですから。

例えば、脚気にビタミンCでは、解決しないです。
脚気にビタミンB。 それもビタミンB1でなければ。
正しい鍵が差し込まれないと鍵穴が開かないように、
正しい薬草が投与されないと病気は治りません。

ですから、薬草の知識は、最初からピタっと病気にあっていないと成立しません。
(虫媒花と同じです。 植物が昆虫の存在を知らない限り、虫媒花は成立しません


そもそも薬草の知識は、研究所のない時代、大昔はどこから来たのでしょうか。
そもそも薬草の知識は、いつも時代を越えていた知識だったのかも・・・です。
薬草の知識をどうやって古代の人たちが得たのかをを想像してみると、世界は意外な姿をしています。

まず、野山にいでて、インスピレーションありき です。
そして、自分でかじってみて、なめてみてでしょう。
その分量によっては激しく当たるでしょう。

中国の伝説、神農(wiki)のように、薬草に関心を持った人々は、毒にあたって悶絶していたかもしれません。
次に、家族や親試してみて、分量を加減し効果を見ていったことでしょう。
ここからは試行錯誤が可能になります。


ちなみに、ルドルフシュタイナーが、子供のころ、そういう感じの能力のかた(森や木々や植物に詳しい)と会っていた と読んだような気がします。

現代なら、きっと製薬会社の研究職で研究に励んでおられるような人は、過去世では、薬草の薬効の発見の祖たちだったのかもです。



人の悩みは、古代も現代もいつも、4種類です。
 「生」 生きていく上で、仕事や家族で、時には勉強での悩み
 「老」 老いていく上での悩み
 「病」 病気になっての悩み
 「死」 死が近づいたときの悩み

この悩みを解決したいと思うのは、いまもむかしも変わりません。

地上生活で、薬草で人の苦悩を助けようと関心を持った人が、霊界に戻っても同じ関心を持ち続けて、専門家になっていっているのではないかと思います。
そういった霊人は、地上から、「この病気にはどんな薬草が効くのだろう」という思いを察知すると、地上にひょっこり顔を出して、助言する・・・ような感じでしょうか。




現代だって、未来に見つかるはずの薬効知識が、真偽のほどはともかくも、ちまたに出回っています。

たとえば、この 「生アーモンドの薬効知識」もそうです。




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■ 神農 - Wikipedia    以下引用 

神農(しんのう)は古代中国の伝説に登場する皇帝。
三皇五帝の三皇の一人。
百草を嘗めて効能を確かめ、諸人に医療と農耕の術を教えたという。
農業と薬において甚大な貢献をしたため、中国では“神農大帝”と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。

神農は紀元前2740年ころの古代中国の王で、120歳まで生きたといわれている。
世界最古の本草書「神農本草経(しんのうほんぞうきょう)」に名を残している。

伝説によれば、神農の体は脳と四肢を除き透明で、内臓が外からはっきりと見えたと言う。
神農は百草をなめて、毒か薬かを調べ、毒があれば内臓が黒くなり、これで毒の有無および影響を与える部位を見極めたという。

その後、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まり、そのせいで最終的に亡くなったという。

神農氏は中国における初めての部落連盟の名前ともなり、その首領は“炎帝”と呼ばれた。神農部族の最後の炎帝は黄帝と連合し、華夏族(漢族の主体)を成した。

薬祖神社 (堺市戎之町)堺天神菅原神社の摂社として少彦名命とともに祀られ毎年11月23日に「薬祖祭」が斎行される。少彦名神社(大阪市中央区)には少彦名命とともに奉られ、毎年11月22日・23日に「神農祭」が行われる。

神農はまた「神農皇帝」の名称で的屋(てきや)の守護神として崇敬されており、儀式では祭壇中央に掛け軸が祀られるほか、博徒の「任侠道」に相当するモラルを 「神農道」 と称する。




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■ 的屋(てきや) - Wikipedia    以下引用

的屋は神農とも呼ばれ、また的屋を稼業人、博徒を渡世人とも呼び別ける。
「無職渡世」とは本来、職業が公認されない博徒を指し、的屋について言われることはなかった。
生業とする縄張りも 的屋では「庭場」、博徒では「島」と表現する。
古くは江戸時代の寺社奉行と町奉行の管轄の違いから来ているともいわれ、現在も地図上でその生業とする地域分けも江戸時代の名残が多く見られる。また 上記概要にも記述があるが、個々の信仰は別として 的屋は職業神として 神農を祀り、博徒は職業神として 天照大神を祀っている。


映画「男はつらいよ」の主人公の
「フーテンの寅こと 車 寅次郎」の生業として知られる。

 歴史

「寺社などの神託」とは具体的には寺社普請といい、現在でも残っているが、特に明治以前の人々の暮らしは政(まつりごとが自治権として地域で認められていた)の中心として寺や神社があり、定期的な修繕や社会基盤としての拡張や一新を図るに当たり莫大な費用が必要であり、その一環として寄付を直接募るよりは、祭りを開催し的屋を招き地域住民に参加してもらい、非日常(ハレ)を演出する事で的屋から場所代として売り上げの一部を普請の資金とした。
庶民も夜店や出店の非日常を楽しみ、日本の祭り文化が人生を豊かにし、技術を持った商売人としての的屋も生活がなりたったと言う背景がある。
ちなみに宝くじの起源である「富くじ」も、寺社普請のために設けられた、非日常を演出する資金収集の手段であった。

呼称

職業神として元々は中華文明圏より伝わり、神道の神となった「神農の神」を祀り、独特の隠語を用いる者が多いため、狭い世界では神農(しんのう)とも呼ばれる。

的屋(まとや)、香具師(やし)、三寸(さんずん)とも呼ばれる。一般には馴染みが薄いと思われるが近年までは、よく使われた通り名であり、的屋(てきや)、香具師、三寸は辞書では、同じ説明がなされている場合が多い。

祭礼や寺社との関わり

上記の「祭礼(祭り)や市や縁日などが催される、境内、参道や門前町」を庭場という。(以下庭場と記述)その庭場において御利益品や縁起物を売を打つ(売る)商売人である。商売人といっても、祭礼時などは町鳶、町大工などの冠婚葬祭の互助活動と同じで、いわゆる寺社普請と呼ばれる相互扶助の一環でもあり、支払われるお金も代金ではなく祝儀不祝儀であるともいえる。
同時に寺社などとの取り交わしによって、縁起物を売る時は 神の依り代になるともいえる。




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■ 壊血病 - Wikipedia

壊血病(かいけつびょう、英 scurvy, 独 Skorbut)とは、出血性の障害が体内の各器官で生じる病気のことである。また、成人と小児では多少症状が異なる。

原因と治療法

ビタミンCの欠乏によって生じる。ビタミンCは体内のタンパク質を構成するアミノ酸の1つであるヒドロキシプロリンの合成に必須であるため、これが欠乏すると組織間をつなぐコラーゲンや象牙質、骨の間充組織の生成と保持に障害を受ける。これがさらに血管等への損傷につながることが原因である。
ビタミンCの投与を行うことによって治療できる。

 歴史

16世紀から18世紀の大航海時代には、この病気の原因が分からなかったため、海賊以上に恐れられた。
ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見の航海においては、180人の船員のうち100人がこの病気にかかって死亡している。

1753年にイギリス海軍省のジェームズ・リンドは、食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物、特にミカンやレモンを取ることによってこの病気の予防が出来ることを見出した。その成果を受けて、キャプテン・クックの南太平洋探検の第一回航海(1768年 - 1771年)で、ザワークラウトや果物の摂取に努めたことにより、史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航が成し遂げられた逸話は有名である。

しかし、当時の航海では新鮮な柑橘類を常に入手することが困難だったことから、イギリス海軍省の傷病委員会は、抗壊血病薬として麦汁、ポータブルスープ、濃縮オレンジジュースなどをクックに支給していた。これらのほとんどは、今日ではまったく効果がないことが明らかになっている(濃縮オレンジジュースは加熱されていて、ビタミンCは失われていた)。結局、おもにザワークラウトのおかげだったことは当時は不明で、あげく帰還後にクックは麦汁を推薦したりしたもので、長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進まなかった。

ビタミンCと壊血病の関係が明らかになったのは、1932年のことである。

イギリス人のことを "ライム野郎 (limey) " と呼ぶアメリカのスラングは、イギリス海軍が壊血病予防としてライム果汁(ジュース)を服用していたことに由来する。第二次世界大戦でドイツ兵のことを "キャベツ野郎(kraut)" と言ったのも、イギリス海軍がライムジュースに切り替えた後も、ドイツ海軍がキャベツの漬物であるザワークラウトを採用していたことから同様に生じたスラングである。






  脚気も、有効成分ビタミンB1が見つかるまでは、こんな感じです。
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■ 脚気 - Wikipedia    以下引用

脚気(かっけ、英 beriberi)は、ビタミンB1欠乏症の一つで、ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。心臓機能の低下・不全(衝心(しょうしん))を併発するため、脚気衝心と呼ばれることもある。

江戸時代の江戸では、富裕層の間で玄米にかえて精米された白米を食べる習慣が広まり、将軍をはじめ富裕層に脚気患者が多かった。脚気は、元禄年間に一般の武士にも発生し、やがて地方に広がり、また文化・文政に町人にも大流行し、江戸患いと呼ばれた。経験的に米にかえて蕎麦(ビタミンB1を含む)を食べると、快復に向かうことが分かっていたため、漢方医学では療法として用いられていたものの、その知識が一般化することは無かった。大正期以降、ビタミンB1を含まない精米された白米が普及するとともに安価な移入米が増加し、副食を十分にとらなかったことで多くの患者を出し、結核とならぶ二大国民病といわれた。

国民の脚気死亡者数は、大正末期に年間2万5千人を超え、昭和期に入っても日中戦争拡大などで食糧事情が悪化する1938年(昭和13年)まで毎年1万人~2万人の間で推移した。1千人を下回ったのは、アリナミンとその類似品が浸透する1950年代後半であった(1950年(昭和25年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92人)。しかし1975年(昭和50年)ごろからジャンクフードの普及により、脚気が再発してきた。アルコール依存症患者にも多く、アルコール分解の際にビタミンB1が消費されることと、偏食もかかわっている。高齢社会(超高齢社会)をむかえた最近では、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症も問題視されている。


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■ >日本の脚気史 - Wikipedia    以下引用

ここでは、脚気の流行が国家的問題となった明治期から、脚気死亡者数が1千人を下まわった1950年代後半までを主として、「脚気の原因」をめぐる医学界の混乱とその収束、軍事上の要請が「特効薬の開発」に波及した経緯などを記述する。


 前史

日本で脚気がいつから発生していたのか、はっきりしていない[1]。しかし、『日本書紀』と『続日本紀』に脚気と同じ症状の脚の病が記載されており、平安時代以降、天皇や貴族など上層階級を中心に脚気が発生した。江戸時代に入ると、玄米にかわって白米を食べる習慣がひろまり、上層階級のほか、武士と町人にも脚気が流行した。とくに江戸では、元禄年間に一般の武士にも脚気が発生し、やがて地方にひろがり、また文化・文政に町人にも脚気が流行した。江戸をはなれると、快復にむかうこともあり、「江戸患い」とよばれた。経験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされ、江戸の武家などでは脚気が発生しやすい夏に麦飯をふるまうこともあった。

明治期

明治期には、1870年(明治3年)とその翌年から脚気がはやった。東京など都市部、陸軍の鎮台所在地、港町で流行し、上層階級よりも中・下層階級に多発し、死亡率が高かった。『人口動態統計』(1899年(明治32年)開始)、『死因統計』(1906年(明治39年)開始)によれば、明治末期までの国民の脚気死亡者数は、最小6,500人(1900年(明治33年))~最大15,085人(1909年(明治42年))であった。ただし当時は、乳児脚気の知識があまりなかったため、「乳児脚気死亡」が大幅に見落とされており、毎年1万人~3万人が死亡していたと推測されている。

大正期以降

大正期以降、ビタミンB1(チアミン)をふくまない精米された白米が普及するとともに安価な移入米が増加し、副食を十分にとらなかったため、脚気の原因が解明された後もビタミンB1の純粋単離に成功した後も[2]、多くの患者と死亡者をだし、「脚気」は「結核」とならぶ二大国民病といわれた。ちなみに統計上の脚気死亡者数は、1923年(大正12年)の2万6千人台がピークであり、その後も日中戦争の拡大や移入米の減少[3]によって食糧事情が悪化する1938年(昭和13年)まで年間1万人~2万人で推移した(翌年12月1日、「白米」禁止と7分つき米の強制[4])。ようやく1千人を下まわったのは、アリナミンとその類似品が社会に浸透する1950年代後半のことであった(1950年(昭和25年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92人)。しかし、1975年(昭和50年)頃からジャンクフードの普及により、脚気が再発してきた。アルコール依存症患者にも多く、高齢社会(超高齢社会)をむかえた今日では、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症も問題視されている。

 問題状況

明治期の主な脚気原因説

脚気の原因がわからなかった明治期、脚気の流行に拍車がかかり(都市部の富裕層や陸海軍の若い兵士に多発)、その原因解明と対策が急がれていた。

脚気の原因がわからなかった理由として、
いろいろな症状があるうえに病気の形が変わりやすいこと(多様な症状と流動的な病変)、子供や高齢者など体力の弱い者が冒されずに元気そうな若者が冒されること一見よい食物をとっている者が冒されて一見粗食をとっている者が冒されないこと西洋医学に脚気医学がなかったこと当時の医学にヒトの栄養に不可欠な微量栄養素があるという知識がなかったこと等が挙げられる。

明治期の主な脚気原因説としては、
「米食(白米食)原因説」(漢方医の遠田澄庵)、「伝染病説」(エルヴィン・フォン・ベルツなど)、「中毒説」(三浦守治など)、「栄養障害説」(ウェルニッヒなど。
ただし既知の栄養素を問題にした)が挙げられる。とりわけ、ベルツなど西洋医学を教える外国人教官が主張した「伝染病説」[5]は、たちまち医界で受け入れられ、その後も内科学者によって強く支持されつづけた。
海軍最初の医学教師として招かれ、海軍軍医の育成にあたったイギリス人医師のウィリアム・アンダーソン(1873年(明治6年)10月-1880年(明治13年)1月に在日)も伝染病説を信じていた[6]。しかし、当時主張されたいずれの脚気原因説も誤りであり、未知の微量栄養素ビタミンB1(チアミン)の欠乏こそ、脚気の原因である。


海軍

海軍の兵食改革

ビタミンの先覚的な業績を挙げたのが海軍軍医の高木兼寛であった。
臨床主体のイギリス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに気づいた。
さらに調べた結果、患者数の多少は食物の違いによること、具体的にはたんぱく質と炭水化物の割合の違いによることを発見した。
その時点で脚気の原因は、たんぱく質の不足にあり、洋食によってたんぱく質を多くすれば脚気を予防できると判断したという。
その後、紆余曲折(うよきょくせつ) をへて1884年(明治17年)1月15日、海軍卿名で、金給制度(当時、現金給与は食費の節約による粗食をまねいていた)が一部みなおされ、洋食への切りかえがはかられた(標準指定金給時代1884年(明治17年)-1889年(明治22年))[8]。

同年2月3日、海軍の練習艦「筑波」は、その新兵食(洋食採用)で脚気予防試験をかねて品川沖から出航し、287日間の遠洋航海をおえて無事帰港した。乗組員333名のうち16名が脚気になっただけであり(脚気死亡者なし)、高木の主張が実証される結果を得た。海軍省では、「根拠に基づいた医療」を特性とするイギリス医学に依拠して兵食改革をすすめた結果、海軍の脚気発生率が1883年(明治16年)23.1%、1884年(明治17年)12.7%、1885年(明治18年)以降1%未満と激減した。ただし、下士官以下にパンが極めて不評であったため、翌1885年(明治18年)3月1日からパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。

高木説への批判

1885年(明治18年)3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。しかし日本医学界の主流は、理論法則の構築を優先するドイツ医学を範としていたため、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには根拠が少なく、医学論理も粗雑との印象をあたえた。そのため、東京大学医学部を筆頭に、次々に批判された。一ヶ月後の4月25日には、同誌に村田豊作(東京大学生理学助手)の反論が掲載され、とくに同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は、机上の空論であることが実証された。

また当時の医学水準では、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかかりやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問をもたれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。そうした反論に対し、高木は海軍での兵食改革(洋食+麦飯)の結果を6回にわたって公表したものの、1886年(明治19年)2月の公表を最後に学理的に反証しないまま沈黙した。のちに高木は「当時斯学会に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁(はんばく)の声であった」と述懐したように[9]、高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得られなかった。

高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は間違っていたものの、「麦飯を食べると脚気が減少する」という有益なエビデンスは得られていた。その後も海軍軍医部は、後述のとおり日清戦争と台湾平定戦で陸軍の脚気患者が急増したとき、石神亨と斎藤有記の両海軍軍医が陸軍衛生当局を批判したものの、麦飯優秀説について学問上の疑問点をあげて反論されると両軍医とも沈黙したなど、学問上の疑問点を解消できずにいた(ビタミンを知らない当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)[10]。

麦食縮小以降、脚気が増加する海軍

高木の思いに反して兵員には、「銀しゃり」という俗語のある白米飯にくらべて麦飯も不評であり、1890年(明治23年)2月12日、「海軍糧食条例」の公布によって糧食品給制度が確立され(1945年(昭和20年)まで継続)、以後、主食はパンと米飯(白米飯ないし麦飯)の混用となった。1917年(大正6年)以降、海軍では麦の割合が2割5分まで低下した[11]。

学問上の疑問点は解消できなかったものの、日露戦争時の海軍は、87名の脚気患者が発生しただけであり、後述する陸軍の脚気惨害と対照的であった。当時、「脚気問題に関してつねに引きあいに出されるのは、陸軍は脚気患者が多数なのに反して、海軍ははなはだ少数なことである。したがって海軍はつねに称賛嘆美され、陸軍はつねに攻撃非難の焦点になっている」[12]とされるような状況であった。ただし日露戦争の頃から海軍は、「脚気」をほかの病名にかえて脚気患者数を減らしている、という風評があった。実際に海軍の統計をみると、脚気の入院率が50%~70%と異常に高いことが指摘されている(通常、脚気の入院率は数%)[13]。その後、高木とその後任者たちのような薩摩閥のイギリス医学系軍医ではなく、栃木県出身で東京大学医学部卒の医学博士本多忠夫が海軍省医務局長になった1915年(大正4年)12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。

脚気患者の増加をうけて海軍省では、1921年(大正10年)に「兵食研究調査委員会」を設置し、1930年(昭和5年)まで海軍兵食の根本的な調査を行った。兵員に人気のない麦飯で麦の比率をあげることも、生鮮食品の長期鮮度保持も難しいなか、苦心の結果、島薗順次郎が奨励していた胚芽米に着目した。1927年(昭和2年)から試験研究をして良好な成績を得ることができたため、海軍省は1933年(昭和8年)9月に「給与令細則」で胚芽米食を指令した[14]。しかし、胚芽米をつくる機械を十分に設置できなかったことと、腐敗しやすい胚芽米は脚気が多発する夏に供給するのが困難であったことから、現場で研究の成果が十分にあらわれず、脚気患者数は、1928年(昭和3年)1,153人、日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで1,000人を下まわることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)は3,079人(うち入院605人)であった[15])。

戦前、「海軍の脚気が増加した原因の一つは、脚気の診断が進歩して不全型まで統計に上るようになった事」[16](それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある)と指摘されていた。また一説には、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)[17]、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、たんぱく質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」という信仰がくずれたこと[18]も原因とする見解がある[19]。


 陸軍

日清戦争での陸軍脚気大流行

「勅令」による戦時兵食の指示

海軍の兵食改革(洋食+麦飯)に否定的な陸軍は、日清戦争時に勅令で「戦時陸軍給与規則」を公布し、戦時兵食として「1日に精米6合(白米900g)、肉・魚150g、野菜類150g、漬物類56g」を基準とする日本食を採用した(1894年(明治27年)7月31日)[20]。
ただし、大本営陸軍部で野戦衛生長官をつとめる石黒忠悳(陸軍省医務局長)の米飯過信・副食軽視が災いの大もととなった[21]。

戦時兵食の内容が決められたものの、軍の輸送能力が低いこともあり、しばしば兵站が滞った。
とくに緒戦の朝鮮半島では、食料の現地調達と補給に苦しみ、平壌攻略戦では野津道貫第5師団長以下が黒粟などを口にする状況であった。
黄海海戦後、1894年(明治27年)10月下旬から遼東半島に上陸した第二軍の一部で脚気患者がでると、経験的に夏の脚気多発が知られている中、事態を憂慮した土岐頼徳第二軍軍医部長が麦飯給与の稟議を提出した(1895年(明治28年)2月15日)。
しかし、その「稟議は施行せらるる筈(はず)なりしも、新作戦上海運すこぶる頻繁なる等、種々の困難陸続発起し、ついに実行の運(はこび)に至らさりしは、最も如何(誤字)とする所なり」[22]と、結局のところ麦飯は給与されなかった。
その困難の一つは、森 林太郎(森 鴎外)第二軍兵站部軍医部長が反対したとされる(もっとも上記のとおり勅令の「戦時陸軍給与規則」に麦はなく、また戦時兵食を変更する権限は野戦衛生長官にあり、当時の戦時衛生勤務令では、土岐のような軍の軍医部長は「戦況上……野戦衛生長官ト連絡ヲ絶ツ時」だけ、同長官と同じ職務権限があたえられた[23])。

下関条約(日清講和条約)調印後の台湾平定戦では、高温という脚気が発生しやすい条件のもと、内地から白米が十分に送られても副食が貧弱であったため、脚気が流行した[24]。
しかも、1895年(明治28年)9月18日付けの『時事新報』で、石神亨海軍軍医が同紙に掲載されていた石黒の談話文「脚気をせん滅するのは、はなはだ困難である」(9月6日付け)を批判し、さらに11月3日と5日付けの同紙には、斎藤有記海軍軍医による陸軍衛生当局を批判する文が掲載された。両名とも、麦飯を給与しない陸軍衛生当局を厳しく批判していた[25]。しかし、11月に「台湾戍兵(じゅへい)の衛生について意見」[26]という石黒の意見書が陸軍中枢に提出されており、同書で石黒は兵食の基本(白米飯)を変えてはならないとした[27]。

そうした結果、かつて遼東半島で麦飯給与に動いた土岐が台湾に着任し(1896年(明治29年)1月16日)、独断で麦飯給与に踏み切るまで、脚気の流行が鎮まる兆候がなかった。
ただし、その越権行為は明白な軍規違反であり、土岐(陸軍軍医総監・序列第三位)は帰京(即日休職)を命じられ、5年後そのまま予備役に編入された(軍法会議などで公になると、石黒(同・序列第一位)の統率責任と軍規違反の経緯などが問われかねなかった)。

脚気惨害

陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』(刊行されたのは日露戦争後の1907年(明治40年)[28])によれば、陸軍の脚気患者は、日清戦争とその後の台湾平定戦をあわせて41,431人(脚気以外をふくむ総患者284,526人)、脚気死亡者4,064人(うち朝鮮142人、清国1,565人、台湾2,104人、内地253人[29])であった。
ちなみに、総病死者20,159人(うち脚気以外16,095人、79.8%)[30]、戦死者977人、戦傷死者293人。また、台湾での惨状を伝える報道等は途中からなくなっており、石黒にとっても陸軍中枢にとっても、国内が戦勝気分に浸っている中、隠蔽(いんぺい)したい出来事であった。

このように、陸軍で脚気が大流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、長州閥のトップ山県有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと懇意で、明確な形で責任をとることがなく[31]、陸軍軍医の人事権をもつトップの医務局長を辞任した後も、予備役に編入されても陸軍軍医部(後年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。

義和団の乱での派遣部隊脚気流行

トップの陸軍省医務局長が小池正直にかわっていた1900年(明治33年)、義和団の乱(北清事変)が勃発し、第5師団(戦闘員15,780人、非戦闘員4,425人、兵站部員1,030人)が派遣された[32]。そのときも、首都北京をめぐる局地戦が主で輸送に支障が少なかったにもかかわらず、前田政四郎(同師団軍医部長)が麦飯の給与を希望しながら麦が追送されなかったこともあり、1年ほどで2,351人の脚気患者がでた[33]。ちなみに戦死者349名、負傷者933名。

1901年(明治34年)5月31日、凱旋した第5師団にかわって清国駐屯軍がおかれたとき(北京議定書に基づき編成)、小池が同軍病院長にあたえた訓示[34]は、上記の台湾平定戦時に土岐が独断で麦飯を給与したことに対し、石黒が発した麦飯給与禁止の訓示とほぼ同じ内容であった[35]。なお、上記の前田は、『軍医学会雑誌』につづけて投稿(1901年(明治34年)5月と7月に掲載)し、とりわけ7月の投稿では遠まわしの表現で米飯が脚気の原因という認識をしめした。しかし、翌1902年(明治35年)4月の『明治三十三年北清事変ノ衛生事項ニ関スル所見』には、なぜか脚気のことをまったく記述していない。そして日清戦争で先陣をつとめ、義和団の乱でも唯一派遣された第5師団から、やや格下の第11師団に異動した[36]。

日露戦争での陸軍脚気惨害

日露戦争のときも、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であり(ちなみに陸軍出身の桂太郎内閣総理大臣も麦飯推進派)、麦飯給与を主張する軍医部長がいたにもかかわらず、大本営陸軍部が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。
その理由として輸送能力の問題が挙げられ、陸軍は延べ100万人弱の人員(非戦闘員の補助輸卒をふくむ)と武器・弾薬などの戦闘物資とを送るのが精一杯であり、食糧について必要限度の白米を送るのがやっとであった[37]。
さらに「麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、味が悪い[38]、輸送が困難などの反対論がつよく」[39]、その上、脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。

白米飯は庶民あこがれのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑(さげす)まれていた世情を無視できず、部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情があった[40]。

しかし戦地では、1904年(明治37年)5月頃から脚気が増えはじめ、気温の上昇とともに猛烈な勢いで増加した。
このため、8月から軍の一部で麦飯が給与され[41]、翌年3月10日に寺内陸軍大臣の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」が発せられ、精米4合と挽割麦2合が給与されることとなった。
また国内で、脚気患者の大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られはじめると、陸軍衛生部さらに大本営の野戦衛生長官で満州軍総兵站監部の総軍医部長、小池(陸軍省医務局長)に対する批判が高まった。
戦後も、小池が陸軍軍医トップの医務局長を辞任するまで、『医海時報』に陸軍批判の投稿がつづいた[42]。

陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第二巻統計、陸軍一等軍医正・西村文雄編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数999,868人のうち、戦死46.423人(4.6%)、戦傷153,623人(15.4%)、戦地入院251,185人(25.1%)(ただし、資料によって病気の統計値が異なる[43])。
戦地入院のうち、脚気が110,751人(44.1%)を占めており、在隊の脚気患者140,931人(概数)をあわせると、戦地で25万人強の脚気患者が発生した(なお兵種別に戦地入院の脚気発生率をみると、歩兵1.88%、騎兵0.98%、砲兵1.46%、工兵1.96%、輜重兵1.83%、非戦闘員の補助輸卒5.32%であり、「軍夫」とよばれていた補助輸卒の数値がいちじるしく高い(1904年(明治37年)2月~翌年4月)。
患者数も補助輸卒は、歩兵の41.013人についで30,559人と多く、過酷な条件のもと任務についていた)[44]。
入院脚気患者のうち、27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)が死亡したと見られる(戦死者中にも脚気患者がいたものと推測される)。



原因解明と治療薬開発

陸軍省主導による臨時脚気病調査会の設置

陸軍から多数の犠牲者が出たものの、日露戦争が終わると、世論も医学界も脚気問題への関心が急速に薄れてしまう。

世の関心は、凱旋将兵の歓迎行事に、医学界の関心は、「医師法改正法案」問題に移っていた。
『医海時評』が脚気問題を取り上げつづけて孤軍奮闘する中(ときにはマッチポンプさえして陸海軍の対立をあおった)、1908年(明治41年)、脚気の原因解明を目的とした調査会が陸軍省に設置された(同年5月30日に勅令139号「臨時脚気病調査会官制」が公布され、7月4日陸軍大臣官邸で発足式)[45]。当時、陸軍大臣であった寺内正毅の伝記によると、発案者は陸軍省医務局長に就任してまもない森 林太郎 (ただし日清戦争のとき、石黒野戦衛生長官に同調)で、寺内自身も熱心に活動したという。
その臨時脚気病調査会は、文部省(学術研究を所管)と内務省(衛生問題を所管)から横槍が入ったものの、陸軍大臣の監督する国家機関として、多額の陸軍費がつぎこまれた。

発足当初の調査会は、委員長(森・医務局長)と幹事(大西亀次郎医務局衛生課長)、委員18名、臨時委員2名(青山胤通東京帝国大学医科大学長、北里柴三郎伝染病研究所長)の計22名で構成された。委員18名の所属をみると、いち早く麦飯を採用していた海軍から2名の軍医が参加したほか[46]、伝染病研究所3名、陸軍軍医6名、京都帝大2名、東京帝大3名、不明2名(日本医史学の大家富士川游・医学博士岡田栄吉)であった。
研究の成果は、陸軍省第一会議室などで開かれる総会(委員会)で、定期的に発表された。

ロベルト・コッホの助言とベリベリの調査

調査会の発足式が開かれる直前の1908年(明治41年)6月22日、森(委員長)と青山・北里(臨時委員)の3人は、来日中の世界的な細菌学者ロベルト・コッホ(1905年ノーベル生理学・医学賞受賞)と帝国ホテルで会っていた[47]。
脚気に詳しくないと前置きをしたコッホから、東南アジアで流行するベリベリを研究せよ等の研究法を助言された。調査会の発足後、さっそくバタビア(ジャカルタ)付近の現地調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試験」という新手法が日本に導入されるきっかけとなった[48]。

1908年、都築甚之助(陸軍軍医)・宮本叔(東京帝大)・柴山五郎作(伝染病研究所)の3委員が派遣されたものの(9月27日~11月28日まで滞在)、現地では白米をやめて熟米と緑豆などを食べるようになっており、また1903年のアチェ戦争(スマトラ島)終結もあってベリベリの入院患者がほとんどいなかった。
それでも現地調査の結果、ベリベリと日本の脚気が同じものであることが明らかにされた。
しかし、伝染病説の証拠(脚気菌)がみつからず、食物原因説に傾くこともなく、歯切れの悪いあいまいな原因論を報告した。ちなみに帰国後の3委員は、宮本と柴山が上司の青山・北里(臨時委員)とともに伝染病説を支持しつづけ、都築が栄養欠乏説に転換した。



未知栄養素の抽出

都築甚之助の動物脚気実験と製糠剤アンチベリベリン開発

「動物実験とヒトの食餌試験」という新手法の国内導入で先頭に立ったのは、帰国した都築であった[49]。都築は、動物脚気の発生実験(エイクマンの追試)を行い、1910年(明治43年)3月の調査会と4月の日本医学会で発表した。動物実験が終了し、糠の有効成分の研究(抽出と効否試験)に進んでいることを公表したのである。また1911年(明治44年)、都築と志賀潔(1910年(明治43年)8月委員となる)は、臨時脚気病調査会の附属研究室で、脚気患者を対象に米糠の効否試験を行った。その結果、服用者の58.6%が治癒ないし軽快した。効否を判定できる数値ではなかったものの、試験をかさねる価値は十分あった。
しかし、都築が12月9日に委員を辞任し、また糠の有効性を信じる委員がいなかったため、米糠の効否試験は1年で終わった。

都築は、翌1911年(明治44年)4月、東京医学会総会で「脚気ノ動物試験第二回報告」を発表し、また辞任していたものの、森委員長の配慮[50]によって調査会でも発表した(俗説で森は伝染病説を盲信し、それ以外の説を排斥したかのようにいわれるが、必ずしもそうではなく、都築の未知栄養欠乏説にかなり理解をしめしていたとの見解もある)[51]。
その内容は、糠の有効成分(アンチベリベリン原液)を抽出するとともに、それでヒトの脚気治療試験をしたというものであり、世界に先行した卓越した業績であった。
さらに脚気の原因は、未知の不可欠栄養素の欠乏によるものであると認定し、そのために主食(白米)だけが問題ではなく、副食の質と量が脚気の発生に大きく関係する、と指摘した。これは今日の医学にも、そのまま通用する内容であり、とくに副食への着眼は、先人の誰も気づいていないものだった。

「第二回報告」以後も、都築はアンチベリベリンの研究にはげみ、ついにその製剤を治療薬として販売した(1911年(明治44年)4月アンチベリベリン粉末・丸などを販売。同年9月、注射液を販売)。有効な脚気薬がなかった当時、ビタミンB1抽出剤(ただし不純化合物)のアンチベリベリンの評判は高く、「純粋」ビタミンB1剤が登場する昭和期のはじめまでよく売れ、広く愛用されることとなった。

鈴木梅太郎のオリザニン発見

農学者の鈴木梅太郎は、1910年(明治43年)6月14日の東京化学会で、「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告した[52]。
ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気様の症状がでて死ぬこと、糠と麦と玄米には脚気を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏していることを認めた。
糠の有効成分につよい興味をもった鈴木は、以後その成分の化学抽出をめざして努力した。同年12月13日の東京化学会で第一報を報告し、翌1911年(明治44年)1月の東京化学会誌に論文「糠中の一有効成分に就て」が掲載された。
とくに糠の有効成分(のちにオリザニンと命名)は、抗脚気因子にとどまらず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調し、ビタミンの概念をはっきり提示していた。さらに1912年(明治45年)、オリザニンを結晶として抽出したと発表した。

しかし1911年(明治44年)10月1日、オリザニンが販売されたものの、都築のアンチベリベリンがよく売れたのに対し、医界に受け入れられなかった(8年後の1919年(大正8年)、ようやく島薗順次郎がはじめてオリザニンを使った脚気治療報告を行った)。
なお、1912年(明治45年)に抽出に成功したオリザニン結晶もニコチン酸をふくむ不純化合物で、純粋単離に成功するのが1931年(昭和6年)であった。
その純粋単離の成功はオリザニンが販売されて20年後のことであり、翌1932年(昭和7年)、脚気病研究会で香川昇三が「オリザニンの純粋結晶」は脚気に特効のあることを報告した。


医学界の混乱

臨時脚気病調査会による食餌試験と食物調査

都築に刺激されて調査会でも、1910年(明治43年)3月-10月と1911年(明治44年)6月~翌年10月の2回にわたり、実地に食餌試験が行われた[53]。しかし、試験方法に欠陥があり(試験委員5人の技量と判断に差があり、また副食が規定(コントロール)されていなかった)、食米と脚気発生の関係について明確な結論をえられなかった。他方、外国など各所の脚気流行について現地調査をし、食物との関係も調査していた。とくに東南アジアでの脚気研究は、「脚気は未知栄養物質の欠乏による欠乏性疾患」と結論される段階にまで進んでいた。しかし国内では、依然として伝染病説と中毒説の勢いがつよく、「未知栄養欠乏説」はなかなか受けいれられず、脚気の原因説をめぐる混乱と葛藤がつづいた。

混乱した要因

国内の脚気医学が混乱していた要因として、三つのことが挙げられる[54]。
第一の混乱要因は、都築によるエイクマン追試により、脚気の原因研究は次の段階に進むものの、同時に新たな論争をもたらしたことである。
端的にいえば、「ニワトリの白米病と、ヒトの脚気が同じなのか違うのか」、「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」が争点となったのである。前者の動物白米病(神経麻痺のみ)とヒトの脚気(多様な症状と流動的な病変)とが「同じ」か「違う」かの問題は、類似点と相違点のどちらを重要視するかのという選択の問題でもあった。その意味で、そもそも脚気患者をみたことがないヨーロッパの研究者と異なり、日本の中心的な基礎医学者が相違点を選択したのは、必ずしも誤りといえない[55]。結果的にその選択は、ヨーロッパでの「実験医学」流行に便乗し、動物実験だけで安易に未知栄養欠乏説に移行しようとする研究グループを抑制することとなった。脚気の原因を解明するには、動物白米病と脚気のギャップをうめる研究が必要であった。

後者の「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」について意見が分かれた最大の要因は、糠の有効成分(ビタミンB1)の溶解性にあった。当時は、糠の不純物をとりのぞいて有効成分を純化するため、アルコールがつかわれていた。しかし、アルコール抽出法では、糠エキス剤のビタミンB1が微量しか抽出されなかった。そのため、脚気患者とくに重症患者に対し、顕著な効果を上げることができなかったのである(通常の脚気患者は、特別な治療をしなくても、しばらく絶対安静にさせるだけで快復にむかうことが多かった)。したがって、糠製剤(ビタミンB1が微量)の効否を明確に判定することが難しく、さまざまな試験成績は、当事者の主観で「有効」とも「無効」とも解釈できるような状態であった。

第二の混乱要因は、脚気伝染病説が根づよく信じられていたにもかかわらず、肝心の原因菌が発見されなかったことである。
それでも伝染病説は否定されることなく、1912年(明治45年)に内科学の権威である青山胤通が『脚気病論』を著し、三浦謹之助のドイツ語論文「脚気」が掲載され、林春雄が日本医学学会総会で「特別講演」を行い、いずれも伝染病説を主張した。もともと西洋医学を教える外国人教官が主張した伝染病説は、たちまち医界で受け入れられ、その後も根づよい支持があった。当時の東京帝大では、内科学(青山・三浦)、薬物学(林)、病理学(長与又郎・緒方知三郎)という臨床医学と基礎医学の双方が「未知栄養欠乏説」に反対という状況であった。

第三の混乱要因は、糠の有効成分の化学実体が不明であったことである。
アンチベリベリン(都築甚之助)、ウリヒン(遠山椿吉)、銀皮エキス(遠城兵造)、オリザニン(鈴木梅太郎)、ビタミン(フンク)のすべてが不純化合物であった。たとえば、オリザニンの純粋単離に成功するのが上記のとおり1931年(昭和6年)であり、翌1932年の脚気病研究会で、オリザニン「純粋結晶」は脚気に特効のあることが報告された。


ビタミン欠乏説の確定

欧米のビタミン学の影響

国内の脚気医学が混乱している中、欧米ではビタミン学が興隆しつつあった。
1912年(明治45年)に「ビタミン」「ビタミン欠乏症」という新しい概念を提唱したフンクが1914年(大正3年)に単行本『ビタミン』を出版した。
同書は、『イギリス医学雑誌』で紹介され、世界に知られることとなった。結果的に学術論文よりも、単行本でフンクの新概念が世界の医界で定着した。

結局のところ、欧米での研究動向は、国内に決定的な影響を与えた。
1917年(大正6年)、田沢鐐二(東京帝大、臨時委員)・入沢達吉(東京帝大・内科学教授、1923年(大正12年)に委員となる)らが糠エキス有効説に変説[56]。
1918年(大正7年)、隈川宗雄(東京帝大・生化学教授、委員)がビタミン欠乏説を主張(なお隈川は同年4月6日に没し、門下生の須藤憲三委員が10月16日に代理報告)。
1919年(大正8年)、島薗順次郎(同年9月、臨時委員となる)が日本食に脚気ビタミンの欠乏があり得ることを証明し、脚気ビタミン欠乏説を唱導。
1921年(大正10年)、大森憲太(慶應大)と田口勝太(慶應大)が別々にヒトのビタミンB欠乏食試験を行い、脚気はビタミン欠乏症に間違いないと主張した。
1921年(大正10年)で脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定した(大規模な試験により、完全に確定するのが数年後)。

臨時脚気病調査会による確定

1922年(大正11年)10月28日、秋の調査会総会(第27回)では、23の研究発表があり、ほとんどがビタミンに関するものであった。
翌1923年(大正12年)3月3日の第28回総会では、脚気の原因が「ビタミンB欠乏」なのか「ビタミンBにある付随因子が加わったもの」なのかに絞られていた。
そこで大規模なヒトのビタミンB欠乏食試験を実施するため、調査会の予算2万円のうち8千円が使われることとなった。1924年(大正13年)4月8日の第29回総会では、36の研究発表があり、「脚気の原因は、ビタミンB欠乏である」ことが99%確定した。99%というのは、実験手法の誤差の範囲について島薗が厳密すぎて研究を深めることを主張したためである。翌1925年(大正14年)、島薗も同調し、脚気ビタミン欠乏説が完全に確定した[57]。

1924年(大正13年)11月25日、勅令第290号が公布されて同日、調査会が廃止された。
脚気の原因がほぼ解明されたことと、政府の財政緊縮が理由とされる。
ただし、未発表の研究成果についても調査会の業績であることから、翌1925年(大正14年)6月3日、いつものとおり陸軍省第一会議室で報告会が開かれた。約20名の元委員が出席し、20ほどの研究発表があった。その席上、入沢(東京帝大)と北島多一(慶應大、調査会発足時からの最古参委員)の提案により、後日、脚気病研究会が発足することとなった(元委員がすべて参加)。

なお、16年間に委員として39名、臨時委員として13名が参加した調査会では、上述のとおり第27回総会で23、第29回総会で36、廃止翌年にも約20の研究発表がなされる等、多くの研究が行われた。その中には、個人の業績として公表されたものも含まれる。また、脚気ビタミン欠乏説を確定した調査会は、その後の脚気病研究会の母体(元委員のすべてが参加)となるなど、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づける見解がある一方[58]、成果を挙げられなかったとする見解もある[59]。


治療・予防法の確立へ

脚気病研究会の創設と中絶

1925年(大正14年)秋、脚気病研究会は、臨時脚気病調査会の廃止をうけて創設された[60]。翌1926年(大正15年)4月6日の第一回総会以降、毎年、研究報告がなされた。とくに東京帝大・島薗内科の香川昇三は、1932年(昭和7年)に鈴木梅太郎の「オリザニン純粋結晶」[61]が脚気に特効があることを報告した。さらに翌年、脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることを報告した(1927年(昭和2年)ビタミンBはB1とB2の複合物であることが分かり、どちらが脚気の原因であるのかが問われていた)。また、胚芽米の奨励でも知られていた島薗順次郎は、脚気発病前の予備状態者がいることを認め、1934年(昭和9年)に「潜在性ビタミンB欠乏症」と名づけて発表した。真に脚気を撲滅するには、発病患者の治療だけでなく、潜在性脚気を消滅させることが不可欠であることを明らかにし、脚気医学に新生面をひらいた。そうした学術業績により、次の課題は、ビタミンB1自体の研究、治療薬としての純粋B1剤の生産、潜在性脚気を消滅させる対策にしぼられてきた。しかし、脚気病研究会のキーパーソンである島薗が1937年(昭和12年)4月に没した。また同年7月に日中戦争が勃発したため、医学者の関心は、地味な学術研究よりも時流の戦時医学にむけられた。そして脚気病研究会は、以後、中絶となった。

なお、ビタミンB1が発見された後も、一般人にとって脚気は難病であった(上記のとおり脚気死亡者が毎年1万人~2万人)。その理由として、ビタミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたため、値段が高かったこと、もともと消化吸収率がよくない成分であるため、発病後の当該栄養分の摂取が困難であったことが挙げられる。

ビタミンB研究委員会、「特効薬」の開発

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)11月16日、ビタミン生産が思いどおりにならない中、突然「ビタミンB1連合研究会」という国家総動員的な組織が誕生した[62]。会員の構成、発会の趣旨、研究の方針は、かつての臨時脚気病調査会(陸軍大臣所管の国家機関)・脚気病研究会(学術研究機関)とよく似ていた。ビタミンB1連合研究会は、3回の開催で敗戦となったものの、解散を命じられることなく、改名しながら「ビタミンB研究委員会」(1954年(昭和29年)以降)としてつづく。

1950年(昭和25年)12月2日の研究会で、京都大学衛生学の藤原元典は、ニンニクとビタミンB1が反応すると「ニンニクB1」という特殊な物質ができると報告した。さらに藤原は、武田薬品工業研究部と提携して研究をすすめ、1952年(昭和27年)3月8日に「ニンニクB1」はニンニクの成分アリシンがB1(チアミン)に作用してできる新物質であること(よって「アリチアミン」と命名)。そのアリチアミンは、体内でB1にもどり、さらに腸管からの吸収がきわめてよく、血中B1濃度の上昇が顕著で長時間つづく、という従来のビタミンB1にはない特性があることを報告した。B1誘導体アリチアミンの特性には、研究会の委員一同が驚き、以後、研究会では、その新物質の本体を解明するため、総力をあげて研究が行われた。

また、藤原と提携して研究をすすめる武田薬品工業は、アリチアミンの製剤化に力を入れた(製品開発のきっかけは、旧陸軍から脚気の治療薬開発を依頼されたこと)。多くのアリチアミン同族体を合成し、薬剤に適する製品開発につとめた結果、ついに成功したのである。1954年(昭和29年)3月、アリチアミンの内服薬「アリナミン錠」が、翌年3月には注射薬の「アリナミン注」が発売された。ともに従来のビタミンB1剤に見られない優れた効果をしめした。その効果によってアリナミンは、治療薬・保健薬として医学界にも社会にもひろく歓迎され、また同業他社をおおいに刺激した。そして1968年(昭和43年)までに11種類のB1新誘導体が発売されたのである。アリナミンとその類似品の浸透により、手の打ちどころがなかった潜在性脚気が退治されることとなった。国民の脚気死亡者は、1950年(昭和25年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92人と減少したのである[63]。

しかし、1975年(昭和50年)には脚気が再燃し[64][65]、原因には砂糖の多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ないジャンクフードがあることが分かった[66]。


トリビア

脚気に苦しんでいた明治天皇は、海軍や漢方医による食事療法を希望したとき、ドイツ系学派の侍医団から反対されて西洋医学そのものへの不信をいだき、一時的に侍医の診断を拒否するなどしたため、侍医団は天皇の糖尿病の悪化に対して有効な治療を取れなかったのではないか、ともいわれている[67]。

明治期から昭和初期にかけて「迷信的」といわれて絶滅寸前だった鍼灸医等の漢方医であったが、栄養起源説が定着する前に明治末期より西洋医学の栄養学の概念を取りいれ、麦飯の推奨や脚気治療に対して味噌汁に糠を投入する「糠療法」を提唱し、民間療法として取りいれはじめた。これが効果を示したことにより、漢方医の社会的地位の保持に貢献した側面がある[68]。 以上引用
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 ・ 宮沢賢治の 「生徒諸君に寄せる」
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・ 宇宙の大きさは、神秘の大きさ。巨大天体「ヒミコ」の重さは太陽400億個分
    http://iinoakazonae03.blog77.fc2.com/blog-entry-459.html
・ もう子供を肩ぐるまできない…。 難病指定のない難病を発症したお父さん
   http://iinoakazonae03.blog77.fc2.com/blog-entry-411.html
・ 家39 太陽の光と 木々と 鮭と シロアリと。 乾燥した木は腐らない。築600年の家。
   http://iinoakazonae03.blog77.fc2.com/blog-entry-382.html
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 ・健11 お薦め健康法 「生活習慣病に克つ新常識―まずは朝食を抜く! 」小山内 博
   http://iinoakazonae03.blog77.fc2.com/blog-entry-429.html
ダイエットに効くだけでなく、 免疫力を高め、滞りがちな血液循環を健全にすることからアトピー性皮膚炎、アルツハイマー、がん、うつ、肩こり、花粉症、肝炎、肝硬変、高血圧、腎炎、糖尿病、動脈硬化、脳梗塞 に有効な驚きの健康法。  お金がかからなくて手間いらずの抜群の健康法。

 ・健10 体力、全身持久力の強い人は、がんの死亡率が60%少ない。 免疫力アップ
   http://iinoakazonae03.blog77.fc2.com/blog-entry-339.html
 ・健09 ギックリ腰を防ぐには
   http://iinoakazonae03.blog77.fc2.com/blog-entry-168.html
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コメント
「曾祖父に言及下さいました。感謝」●remark
コメントにて連絡します。はじめまして

外戚の曾祖父に林春雄をもつ曾孫の幹かんです。

タイムマシーンに乗って曾祖父と出会えたようです。感動です。 

架け橋を用意してくださったいのさんにTHANK YOU A LOT...,是非小ホームページも訪れて…。

Ciao! {Kan ISOSAKI}
2010/01/04(月) 03:14 | URL | 磯嵜 幹 #-[ 編集]
No title
.

磯嵜 幹さん
コメントありがとうございます。

お立ち寄りになり、お読みになり、
そして記事中に…と、ご縁が巡り、うれしいです。

URLに伺いましたが、つながらない様子でした。
また、機会あればご紹介下さい。

.
2010/01/04(月) 19:22 | URL | いの #-[ 編集]
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いの 01

Author:いの 01
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絵本「ノンタン がんばるもん」を 読んで
■ 「トトロを楽しもう♪  ゆっかりん♪さん
三びきのやぎのがらがらどん を読んで
■ パプリカのぬか漬け』 ぬかlifeさん
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